経済

中島聡『おもてなしの経営学』(アスキー新書)について

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55) おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55)

著者:中島 聡
販売元:アスキー
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先日、海部美知『パラダイス鎖国』の書評を書いたので、先月の八重洲ブックセンターでの対談のもう一人の主である中島氏の本書を読んでみた。

 

いきなり書評を書こうとも思ったのだが、それよりもAmazonでのレビューがこの点で厳しいことが多く書かれているので、それをダシにして感想を書いてみたい。

 
   

(1)「著者のblogを愛読しているので、期待していたが、雑誌の記事の採録や対談の記録で、資源の再利用を見ている感じ。[星3つ]

 
   

(2) ブログを日ごろから読んでいたので予約までして楽しみにしていた本だが、271ページの本書の123ページ以降、すなわち半分以上のページ、が特別対談で占められているというなんとも期待を裏切られる作品。第一章「おもてなしの経営学」は、ほぼブログと同じ程度の情報量しかない。 [星1つ]

 

たしかに、気持ちは分からなくはないが、先月の対談でも中島氏本人が「海部さんの本ほど論理立ててまとめられていない」「書くのに苦労して、プログで書いたことと対談を入れてなんとか一冊の本になった」という趣旨のことを既に言われたので、読後に違和感や失望はなかった。

 

上の2つの意見には、アマゾンレビューでも投票が多い(しかも「参考になった」とするものが多数)のだが、これら2つの意見は、はっきりに言うと、blogを普段から読んでいる人が勝手な期待をしてそれが裏切られただけのことにすぎない。世の中には中島氏のブログLife is beautifulを読んでいない人はたくさんいるのだ。だからこそ本を出したということもあるだろう。世の中には対談だけを収めた本も数多くある。本書に対する正当な評価とはいえないだろう。

 
   

(2)(続き)経営にはおもてなしが重要という主張に対して、同意・反対できるだけの論理が展開されていないため、本として出版するレベルにまで昇華されてないように感じられた。ブログでは、その程度の内容でエントリーしてもいいだろうが、本として出版する以上、もうすこし踏み込んだ考察がほしかった。

 
   

(3) 同じようなことを見方を変えて書いていたりするのでときどき「あれ?前のページでも同じことを言っていたような」という気分になります。[星3つ]

 

これらの指摘には同意。ただ、これは先にも述べたように、書いた本人がよく分かっていること。むしろ、この問題は、編集者に責任がある。中島氏はブログは書いているけれどもプロの書き手とは言い難いのだから、編集者がもう少し時間をかけてきちんとサポートしてあげるべきだろう。アスキーの早く出版したい(しかも海部氏の『パラダイス鎖国』と合わせて)との意向が透けて見えるような気がする。

 

では、私はどう思ったかというと、上記の欠点はあるとはいえ、素直に面白いと思った。実は中島氏のことを失礼ながらそれほどよく知っていたわけではなく(ブログも去年の中ごろから読み始めたばかり)、本書を読んで、日本人にも、こうした人材がいたのかと今頃になって感心した。彼のブログはギークたちがよく読んでいるらしいが、分かるような気がする

 

確かに、本書では中島氏の言いたいことが整理されておらず、特に第2章はタイトルが「ITビジネス蘊蓄」(!)というふざけたものになっていることから分かるとおり、ただ彼の過去のブログのエントリーを並べただけなので、分かりにくい。むしろ、第3章の対談(特に古川亨氏との対談、梅田氏との対談)を読むと、彼が考えていることがよく分かるように思う(ひろゆきとの対談は、むしろひろゆきの方が主役という感じ)。対談という形式が、対談相手とのインタラクションの中で彼の言いたいことを分かるように引き出しているように思う。

 

もちろん、彼のいう「ユーザー・エクスペリエンス」=「おもてなし」の重要性にはうなずけるところが多い(1)(もっとも、私は、この言葉よりも、それと対比される「床屋の満足」というフレーズが気に入ってしまったが(2))。中島氏の「おもてなし」は、ものづくり寄席で聞いた阿部誠教授の話にもつながると思った。

 

(1) ただ、日本のシステム構築は、ユーザのニーズに合わせてカスタマイズしすぎることが逆に問題になっているようだから、「おもてなし」も時と場合によるということはいえるのかもしれない

 

(2) 既存の言葉で置き換えると、それぞれ「マーケット・イン」、それに対比される「プロダクト・アウト」といったところだろう。)

 

 

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終身雇用制への支持86.1%、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」よりも「平等社会」に支持

いくつかの新聞にも記事が出ていたが、独立行政法人労働政策研究・研修機構「第5回勤労生活に関する調査」結果から(3月24日公表)。

 

1 日本型雇用慣行の評価

「終身雇用(1つの企業に定年まで勤める日本的な終身雇用)」と「組織との一体感(会社や職場への一体感を持つこと)」を支持する(「良いことだと思う」と「どちらかといえば良いことだと思う」の合計)割合は、それぞれ2001 年(76.1%)、2004 年(77.8%)に一度低下した後に再び上昇に転じ、2007年には9割弱(それぞれ86.1%、84.3%)となった。

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2 望ましいキャリア形成

最も望ましい職業キャリアとしては、「一企業キャリア(「1つの企業に長く勤め、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「1 つの企業に長く勤め、ある仕事の専門家になるコース」)」が1999 年から一貫して高く、2007 年は約5割(49.0%)となっている。2004 年と比較すると6.1 ポイントの上昇となっている。次いで、「複数企業キャリア(「いくつかの企業を経験して、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「いくつかの企業を経験して、ある仕事の専門家になるコース」)」で2割強(24.6%)となっており、2004 年よりわずかに低下している。「独立自営キャリア(「最初は雇われて働き、後に独立して仕事をするコース」+「最初から独立して仕事をするコース」)」は、1999 年から下降傾向にあり2007 年には約1割(11.7%)となっている。

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(中略)

7 日本が目指すべき社会

これからの日本が目指すべき社会のあり方についてきいたところ、1999 年から2004 年までは「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が4割程度で、「貧富の差が少ない平等社会」を上回って推移していたが、2007 年には、これが逆転、「貧富の差が少ない平等社会」が大きく上昇(約13 ポイント上昇)した一方で、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が大きく(約11 ポイント)低下している。

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ソース:労働政策研究・研修機構の調査結果(PDF)

 

この結果は、日本に住む人々の大多数は、海部さんの『パラダイス鎖国』の中で今後の方向として思い描く世界とは別の方向を指向しており、その傾向が更に強まっていることを示すようにも見える。

終身雇用への郷愁が強くなっていることはその一つだが、特に私にとって印象的だったのは、最後に挙げた「日本が目指すべき社会」で、これまでトップを占めてきた「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」を抜いて、「貧富の差が少ない平等社会」が最も大きな支持を集めるようになったことである。社会主義的指向といえばよいのか、あるいは「パラダイス鎖国」の強化を望んでいるといえばよいのか。リスク回避、安定志向、悪く言えば、「後ろ向き」である。そうしたものは不安定な経済社会環境を反映していると考えてもよいだろう。

ここでの問題は、こうした人々が嗜好する社会のあり方が、本当に日本経済全体の豊かさを、つまり、一人一人が豊かに暮らせる社会を、本当にもたらし得るか、ということである。確かに、かつての高度成長期からバブル期までは、終身雇用(といっても実際には一部の企業で実現したにすぎないのだが)のもとで経済成長が果たされた。しかし、日本を取り巻く状況はその時期とは異なっており、かつて存在した雇用システムと経済成長の間の「好循環」はもはや保証されなくなっている。この調査結果は、そのことを多くの人々が十分に気づいておらず、過去への郷愁にとらわれていることを示しているようにも見える。

かつてのような大きな成長が望めない以上、穏やかなインフレのもとでの安定的な成長と、その中での生産性の向上を果たしていくことが必要であり、その点では、適切なマクロ政策と、(たとえば、イノベーションを起こりやすくするなど、経済全体としての)生産性の向上を引き出すような仕組みが必要である。

この調査で示されている人々の選好は、マクロ経済政策の失敗による経済不振・デフレ化、その他政策が導いた不安定な経済環境がボディーブロー的に利いている結果ではないのかと思う。人々がこうしたメンタリティを持ってしまうことによって、より柔軟な社会システムの実現が一層困難になっているおそれもある。その意味で、これまでの政策(無策を含めて)の罪は重いのだが、同様の意味で、今後も、政府・日銀がとっていく政策は重要である。

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(続)「Jシリコンバレー特区」構想について

 

 

先日の"「Jシリコンバレー特区」構想について"というエントリーに対して、    
>じゃ、どうしたらいいかな?    
とのコメントをいただいた。

 

この問いに対しては以下の3つの可能性を考えた。   
(1)上で指摘した問題点に対応するために具体的に何をすればよいのか、という方法論に関する質問    
(2)Jシリコンバレー特区の設置は前提としつつ、どう修正すればよいのか。    
(3)Jシリコンバレー特区の設置は前提とせず、何をすればよいのか。

 

その後にさらにいただいたコメントを読む限り、1を求められているようではないが、2なのか3なのかよく分からないので両方について書きたい。

 

何はともあれ、将来の日本を考えて興味深い構想を真面目に提案してくれるのは良いことである。この点で、分裂君の元のエントリーは評価している。ただ、構想を思いつく以上に、それを磨いていくことは重要なことである。問題点があれば建設的にそれを指摘することは、更に良い構想に育てていくために有益だと考える。先日のエントリーはそのような趣旨で書いたものである。「批判だけなら誰でもできる」というが、建設的な批判は必ずしも誰でもできるとは限らない。もちろん、先日のエントリーがどれほど建設的で有益だったといえるかどうか自信はないけれども。

 

そうした趣旨なので、まずはできるだけJシリコンバレー特区構想を生かす形での修正を考えてみる。実は、この構想の目的を税収確保と書いているが、税金は社会として厚生を高める手段を講ずるために必要なのであって、税収自体を目的とするのは本末転倒ではないかと思われる。むしろ、「世界的ベンチャー企業をどんどん生み出してもらう」というような文章もあるので、イノベーションベース型経済を日本国内に生み、これを通じて経済的な豊かさを導くとことと考えるほうがよい。いずれにせよ、特区の狙いは、そのために高度な能力を持った人材が集まった知識クラスターを生成し、それを梃子に日本国内全体の経済活動に結びつける(ちなみに、これに伴い税収も上がる)、といったところであろう。

 

しかし、このような高度な人材が集まってくる最も大きな理由は、まさに触発されるような高度な人材がそこに大勢いて、そこにイノベーション文化があることなのではないだろうか。(前回も同趣旨を書いたつもりであるが)分裂君の構想は、要するに高度な能力をもった人材にとって住みやすい物的あるいは金銭的な環境を整備することが中心に語られているが、これは人材が集まる必要条件でありえても十分条件ではない。しかもこうした環境面は他の国もおそらくは容易に用意できるものだ。

 

したがって、発想としてはむしろ逆に、まずは、高度な人材にとって非常に興味がわき、彼らが集まって協働したり、情報や意見を交換し合ったりするようなプロジェクトが先に必要ではないだろうか(分裂君は「Jシリコンバレー大学を設立して世界中の優秀な教授や大学講師をヘッドハントしてきて集める」「英語圏の一流大学の分校をこの特区に誘致する」などと書いてあるが、それをどうやって実現するかことが大問題であるはずである。簡単にホイホイと日本に来てくれると思わないほうがよい)。そうした世界から人が集まるようなプロジェクトとして、まず日本こそがその場所として相応しいようなものを核にしていくことが考える順番として先であるはずである。そして更に日本における経済活動全体にどのようにつなげていくかのリンク等を考えていくべきである。

 

残念ながら、そうようなプロジェクトとしてどのようなものが考えられるのか、私にはわからない。Jシリコンバレー構想を推進する場合、この点を構想の提案者がよく検討してみるべきだと思う。

 

ただ、このような特区が上手くいく可能性は否定しないものの、この特区構想を私個人としては買わない。それは、こうしたプロジェクトについては、政府すら確信をもってこれが成功すると断言できないはずだからである。どのような開発プロジェクトであっても人間が先験的に成否を判断することはできない、ということもあるし、政府と民間の間の情報の非対称性(政府の失敗の一つとしての)もある。本家シリコンバレーが成功したのも、政府の計画によってではなく、自生的に人々が集まったからであろう。上で述べたように環境整備を先に考えずにプロジェクトを核に考えて構想を進めたとしても、巨額の税金等の投資が必要と考えられる本特区構想が成功する保証はない。すなわち、大きな損失を被る可能性は大きいのである(そのような先例もある)。政府において責任のある立場の人間であれば、この構想を進めることはギャンブルであり、消極的に対応すべきことであると思う。

 

むしろ、もし投資をするのであれば、別のもの、例えば、日本人の人的資本に投資するのが一つのとるべき方法であると思う。その一つとしては日本人の語学能力工場があると思う。世界の高度な人材と交流する上で、日本人の語学能力の低さは知識の吸収等の面で大きな障害になっているように思われる。このことは日本の生産性にも影響しうる。こうした点に投資してもよいのではないか。

 

 

 

(追記) ここまで書いたところで、bewaad氏が分裂君のエントリーに対してコメントをしていること(「日本はレッドオーシャンに浮かぶ島国となるべきか?」)を発見した。私が先日言ったと類似しており、基本的にその趣旨には賛成である(もっとも氏の方のエントリーの方が先であった)。ただし、結論として、「まずはデフレを脱却すること」を主張しているのは、ワンパターンであるだけでなく、少々分裂君の問題意識からややずれているようにも思われた。デフレ脱却の重要性については、私もサイトのバナーから分かるとおり異論はない。しかし、ここでの分裂君の構想は、「目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。」と書いてあるように、長期的なものであり生産性をあげるためのもののように思われる。デフレ脱却という当面の課題(もちろん継続的にも必要だが)とは多少視点が異なっているのではないか。

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書評:海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書)

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54) パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54)

著者:海部 美知
販売元:アスキー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本書については、先日このブログでまとめを書いたところだが、それに対する自分の考えを整理するに時間がかかってしまった。言い足りないことも多々あるだが、ひとまずの整理はできたので、以下に記してみたい

 

1.「パラダイス鎖国」というベクトル

  「パラダイス鎖国」とは、経済の実体を示すだけではなくて、内向きにこもって安住していたいという心理的な傾向も示すような響きのある言葉である。著者が意識しているかどうか分からないが、この言葉には、日本経済とか、企業活動とか、あるいは個人の消費活動とかいった「実体的なもの」に関するものと、人々の意識や心理に関するものの2種類が含意されていて、1980年代やそれ以前と比較した時の、現在の日本の経済の実体と心理の「方向性」あるいは「ベクトル」をうまく表現しているように思われた。 

確かに、絶対水準で1980年代と比べると、実体面では、明らかに日本市場の対外開放度や企業のグローバル化度は高いであろう。日々の生活においても、外国人の姿(欧米人だけでなくアジアからの人々、それ以外の地域の人々)は当たり前のように身の回りで見られ、心理的な抵抗感や偏見も少なくなっているように思われる。しかし、「ベクトル」という点からすれば、かつてのように明らかな開国へ向かっていた方向とは異なり、できれば内に閉じこもうという傾向が目立つようになっている。本書の第一章で書かれているいくつかの事例はまさにそのようなものだが、このほかにも、例えば、先日のFTの記事について書いたように、日本の企業社会や政府は、外資を含めヨソモノを相変わらず受け容れることに相変わらず消極的な傾向が強いことをあげることができる。近年、マスコミやネットで見られる日本に閉じこもろうとするような退行的な言論も別の一例としてあげることができるかもしれない。こうした日本で広く見られる実体的な事象、そしてそれらに共通する心理的傾向を、「パラダイス鎖国」という言葉で適格に表現しているのが著者の秀逸なところである。私が「パラダイス鎖国」というフレーズに共感してしまうのは、こうした1980年代までの日本で感じられた「ベクトル」と、現在の日本で感じられる「ベクトル」との間にある明らかな相違を実感するからだと思う。 

 

2.議論の混乱 

ただ、こうした「パラダイス鎖国」状態がなぜ克服され、「ゆるやかな開国」に向けて進むべきなのか、という点についての本書の説明には、どうも説得力があまり感じられない。もう少し具体的にいうと、パラダイス鎖国について語った第1章、第2章と、多様性のある社会へ進むことを問いた第3章、第4章との間には、齟齬が感じられ、すっきりつながってこないのである。なぜなら、第1章、第2章では国を開くか閉ざすかという問題が主に述べられているのに対して、第3章、第4章で語られているのは、むしろ多様性をもった社会で試行錯誤を繰り返していくかどうか、という点だからである。わかりやすく言えば、著者が本書の後半で主張する多様な価値観をもった人々がいろいろと試行錯誤を繰り返していってイノベーションを生み出していくような社会は、海外との関係が一切なく、国内だけでもを作ることは十分に考えられるからである。無論、多様な価値観を持った人々には海外の人間も含まれうるし、おそらくその方が多様性が高まり著者は望ましいと考えるだろうと思うが、海外に開かれることは第3章や第4章で述べられる著者の主張においては絶対的な必要条件ではないように読める。 

こうなってしまったのには、一つには、著者が「海外に出るか/国内に留まるか」というモノサシだけで現状の問題を語ろうとしまったからではないかと思う。確かに、この尺度で見た内向きの傾向というのは今の日本の一つの傾向を端的に表している(その意味では「鎖国」という言葉は適切な言葉である)。しかし、著者が本書の後半で述べる主張からすれば、前半では文字通りの「鎖国」状態だけではなく、「居心地の良い今の環境、自分がよく知り慣れ親しんでいるものに安住したい」「新しいものを危険を冒して取りに行くよりも、既得のものを守ろう」という「守り」の心理や行動、さらに、それに対する批判に対して、むしろ「現在の居心地のよい環境や自分たちの慣れ親しんだものを積極的に肯定しよう、自分たちの良い面を見よう」という「反動」の心理や行動を、現在の日本の問題とすべきであったように思う。それほど「パラダイス鎖国」というフレーズはインパクトが強い表現なのだろうが、逆に著者自身がその言葉(特に「鎖国」の部分)に引きずられて議論がゆがめられてしまった感じだ。 

こうした歪みがあるせいなのだろうか、特に第2章は何がいいたいのかよく分からなくなっているように思われる。例えば、著者は「パラダイス鎖国」現象の本当の問題として、「海外におけるジャパン・ブランドの低下」「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」の3点であるが、よく考えると、これらがどうして問題なのかがはっきりしない。 

       
  • 「ジャパン・ブランド」がどうして重要なのだろうか。確かに、海外で「ブランド」を確立していれば海外で売れるとは思うが、それは一部の輸出産業(特に大衆消費財)についていえることであり、必須の条件とはいえないのではないだろうかまた、これが個々の企業だけではなく、「内需中心」の日本経済全体、あるいは日本の個々人にとってどのような意味で重要なのかが分からない。個々の企業の製品のプランドを「ジャパン」という国籍と結び付けている点も安易に思える。
  •    
  • 「パラダイス鎖国」という言葉が「外界には関心を持っていなので、特に対応しなくてよいだろう」という意識のことを指すのだとしたら、「変化が遅くて外界に対応できていないこと」自体はトートロジーに近いし、そもそも日本が「変化が遅くて外界に対応できない」というのは昔から言われていたことのように思う。むしろ、このことがどのような意味で問題なのか、すなわち、外界の変化になぜ迅速に対応しなければならないのか、という点をもっと述べるべきであっただろう。その際には、この点が誰(何)にとって重要なのかという説明も必要である。
  •    
  • 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」という点も、かつてとの比較で現在日本が「パラダイス鎖国」になったことの説明の一つになっているに過ぎず、これが、誰(何)にとってどんな問題なのかが語られていないように思う。著者の考え方は、海外へのあこがれが日本人の労働インセンティブにかつてはつながった、そして海外へのあこがれの喪失が日本人の労働インセンティブの喪失につながっている、という議論に私には読めたが、確かにそういう関係は一部にはあるだろうとは思うものの、海外へのあこがれで人々の労働インセンティブの多くを説明するのはかなりバランスを欠いた議論のように思える。 

こうして見ていくと、筆者の議論にはある種の思い込みや偏りがあってそれが混乱を生んでいるところがあると思う。一つは、海外への憧れ(人々のインセンティブ)→輸出(海外で売れること)→日本製というブランドの確立→経済発展/国際競争力(?)というような図式を想定していると思われることである。一部にはそうした関係もあることは否定しないが、海外での日本企業の活動自体を過剰に重視していて、これですべて説明するのは経済学的に言って無理がある。日本のように内需中心の大国では、国内での経済活動の方を問題とする考え方の方が真っ当である。 

また、著者の経歴からするとやむをえない気もするが、どうしても海外で製品を売るような産業、特に携帯電話等の電機産業に偏りすぎている印象がある(あくまでも憶測だが、本書やブログの読者にも多少の偏りはあるのではないか)。上で述べたとおり、国内中心の産業(例えばサービス産業)はどうなのか。また、海外での売り上げの大きい産業といっても、電機メーカのほかに、自動車メーカはもちろん、多少地味だが素材メーカ等、世界的シェアが高い企業は日本にかなり存在する。むしろ、日本の電機業界は、モジュール化の進行の中で比較優位を失っている点もあるので、これだけをもって、現状の日本全体の問題点を語るのは十分とは言えないだろう。 

さらに、本書全体を通じてそうなのだが、日本の何について語っているのか、という点もごっちゃになっている印象がある。つまり、日本社会を構成するひとりひとりの個人(=労働者/消費者)のことか、日本をベースとする企業のことか(なお、本書で語られているのは一部の産業のみ)、それとも日本全体(マクロ経済、社会全体、あるいは国家)のことか、いずれもあまり区別されてないで論じられているように思う。しかし、これらは相互に密接に関連しているものの、これらがすべて同じ方向を向いているはずはないし、いつも同じ利害を共有しているはずもない。多様性のある社会を望む著者の主張からすれば、むしろそれらを明確に区別していくことが必要と思うのだが。 

特に第2章の議論には、他にも問題とすべき点が多いように思う(特に経済学的な視点からすると)。いちいち噛み付ける気力体力能力もないが、一つだけ例を挙げれば、「国際競争力」のランキングを使っていることである。これはいろいろと問題が多く(詳細は省くが、例えば飯田泰之『ダメな議論』(ちくま新書)第5章参照)、これを使って議論するのは不適切と思われる。この第2章に限らず、全体を通しても、議論の組み立てという点でいえば、まだまだ課題が多そうだいというのが本書を読んでの感想である。

 

3.現在の日本の何を問題と考えるべきか 

では、著者が本書の後半で述べる主張の観点から言えば、今の日本の何が問題なのか。現在の日本での様々な現象を考えるに、私は、日本が成熟した先進国となった今、様々な持てる「資源」(金融資産、物的資産、人的資本、さらには技術といったもの)を有効活用することが必要になっているにもかかわらず、それら資源を有効に活用できていないし、また有効に活用すべき術を理解していないことが一番大きいと思う。 

その一つの例は、第4章で述べられている雇用である。本書で問題とされているように、終身雇用的な慣行には利点もあるのだが、必要なところに必要な人材を配分することを難しくするという欠点もある。市場原理は以前よりも導入されており、終身雇用的な雇用慣行もかつての力は失われつつあるが、しかし今だ強固に主要企業のコア部分で継続しており、現状では、人材の有効活用という点では有効に機能していない。 

また、著者のブログで最近述べられている「成長」の話題も、結局、日本企業は持っている資源の使い方が基本的に下手であることを示しているように思う。極端に言っててしまえば、日本企業は、「できるだけ効率的にお金を儲ける」という原理に忠実でなく、手間をかけずに儲けるために知恵を絞ることをサボっているのだ、と私は考えている。 

もはやかつてのように放置していても自然と高度成長が進むような状況は望めず、資源(資産、人的資本など)が限られてきているという環境変化を念頭に置くならば、日本としては、いかにして、この限られた資源を有効に活用していくかという「術」に頭を働かすべきである。今までのようなひたすら一点にむかってひたすら頑張る(こういった姿勢がなぜか日本では美徳とされるのだが)という戦術(著者の言葉でいえば「果てしなき生産性向上戦略」)は、かつては成功したが、それを今なお皆がこぞって続けるのは能がない。まるで、日露戦争で成功した戦術を太平洋戦争でも使い続けた旧軍みたいなものである。著者が本書で主張する国内、既存の組織の資源ばかりに頼らず、多様性を増大させ、「試行錯誤戦略」も採用していくことは投資戦略としても妥当だし、またそうした途を模索していくべきであろう。そうした意味で、著者が本書の後半で述べている方向性には同意できる。「プチ変人」を含めた多様な人材を許容していくこと、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすること、時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうことなどは、確かに有意義であろう。

 

4. 多様性のある社会は実現するか 

しかし、目指すべき方向性があるとしても、それを実現することは別の話である。例えば、著者のいう雇用の流動化についても、かねてより主張する人は多いが、なかなか実現しない。新卒の人間にまで強い終身雇用願望が存在している現状がある。実際、雇用流動化を進めることには中立的な立場の人からも否定的な見解が示されることもある。 

著者の主張するゆるやかな開国、多様性のある社会、あるいは厳しいぬるま湯などをどのように実現するか。どのように日本をフルモデルチェンジしていくのか。ここが大きな課題である。そこは著者の考えを知りたかったところだが、残念ながら、本書はそこには触れていない。どちらかというと、こうしたものをつくりたいという願望を描いたラフな企画書・スケッチに留まっており、その実現性まで考慮したプランに至っていない。その点に本書への物足りなさをを感じたのは事実である。ただ、これが大変難しい課題であるのも事実であり、私もここで論じる余裕はない。 

しかし、それでも、「パラサイト鎖国」論を通じて、現状に感じている閉塞感を打ち破りたいと感じている数多くの個人に、それを解消する未来像を分かりやすく示している点は大いに評価できると思う。心理的な閉塞感の解消を期待させる本書には、共鳴する一般の読者は多いだろうと推測する。その意味では、新書版という手軽な媒体を通じて、日本に住む個々人の意識を徐々に変えていき、それを将来の変革へつなげていく可能性を開いたことにこそ、本書の意義があるのかもしれない。

* 著者は、ブログで「 ち なみに、読者の皆さんへのお願いです。本の感想は、ぜひ、mixiとかのクローズドな媒体だけでなく、アマゾンの書評にも書き込んでください!」と書かれ ているが、とてもAmazonのレビュー(800字)には入りきらないので、ひとまずこのブログに置いておくことにする。Amazonには別途簡潔なバージョンを書ければよいとは思っているが、本書の販売促進からいうと迷惑な書評になってしまうかも。

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「Jシリコンバレー特区」構想について

シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法 - 分裂勘違い君劇場

   
   

東京から直通電車で20~30分くらいのところに、経済特区を作る。仮にJシリコンバレー特区と呼ぶことにする。

    

この特区では、英語が公用語。役所、医療施設、学校、レストラン、スーパー、電車、交通標識など、あらゆるものが英語で運用される。この特区内の企業に年収500万円以上で採用された外国人には、この特区内だけで働けるワーキングビザが発行される。当面は、インド、中国、西欧、北米、旧共産圏などの高度知識労働者をこの都市に集めることを目指す。目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。・・・・

   

読んだ第一印象は、「いかにも、政治家や官僚やタレント系の学者、コンサルタントなどが考えそうなこと」というもの。シリコンバレーにならって、クラスターを作ろうという構想はこれまでもたくさんあったが、実際に上手くいったものはあまりないのが実状。このJシリコンバレー特区構想は、規模的にもより大きく、海外によりオープンにするなど、大胆なものとなっているのだが、発想としては、そういったものの延長線上にある、「ハコモノ」中心、受け入れ側の視点中心の思いつきに思え、これだけでは、あまり上手くいきそうにないなあ、という感じがする。決してネガティブに捉えたくはないだが、ちょっと考えただけでもいくつか課題が思い浮かんでしまう。

   

第一に、受け入れる日本側の都合ばかりで考えられていて、海外から来る人々にとってのこのJシリコンバレー地区で活動しようというインセンティブが乏しいのではないか、という点である。確かに、英語とか、交流スペースとか、税制とか、インフラとか、安全とか、生活支援サービスとか、あったらいいものばかりであるが、しかし、それらがあるからといって、高度知識労働者がわざわざ日本に来たいと思うだろうか。どこの国、どこの地域でも、高度知識労働者は集めたいはずで、そうした国や地域との獲得競争になって勝てる勝算が十分にあるのかどうか。EUだって、韓国だって、中国だって、インドだって、全力で取り組んでくる可能性も考えないといけないし、現在において、言葉や市場規模、外資・外国人受け入れ環境等、日本はスタートラインとして不利な立場にある。そもそも今あるシリコンバレーよりも日本のJシリコンパレーが魅力的にみえるほど強烈な誘因は何かあるのだろうか。カネや環境ばかりが問題じゃないだろうし。東京や日本の優良顧客って他地域と比較してそんなに魅力的なものなのだろうか。

   

第二に、第一の点とも関連するが、書かれているような「ハコモノ」(かならずしも物理的なハコモノとは限らないが、目に見えやすいもの、という意味)だけでなく、海外からきた「上客」を満足させるだけの、運営のノウハウ、技術が不可欠である。しかし、そうしたものが日本にあるのか、またそうしたものを短期間で整備できるのか、正直疑問。

   

第三は、ヒト、モノ、カネ、土地。どれくらいの規模のものを想定しているのか分からないが、もし本格的に意味のあるものを現実のものとするのには、大変なカネがかかるし、また日本にいる英語+αのできる人材、土地を相当に集めて投入しないといけないと思う。これには大変な費用がかかるのではないか。東京から20-30分程度の場所だと、たくさんの住民を立ち退かせないといけないかもしれない。また、こうした直接的な費用だけでなく、文化的摩擦など、海外からの人間が流入することによる様々な間接的なコストもある。

   

第四に、これら費用を正当化するだけの便益が本当にあるのか。書かれていないのでよくわからない。

   

第五に、こんなに費用もかかる構想について、おそらく直接裨益しない大多数の日本国民を説得できるのかどうか。

   

全体として言えば、こうした発想を提示するのは良いことだと思うけれども、書かれたものだけを見れば、まだ、受け入れる側のバラ色の構想(というか願望)ばかりが前面に出ている段階にみえる。冷徹に損得勘定した結果として出てきたわけではないだろう。まあ、私もあまり欠点ばかりあげつらうのは好きではないし、これを書いた御本人もこうした欠点はあることは先刻承知の上でひとまずの構想を書いて出してみたのだろうから、ひとまずここは課題の指摘ということで、続編を期待。成功のためには、想像力とともに、人々のインセンティブ等を考えた精巧なソシャル・デザイン、メカニズム・デザインが非常に重要だと思う。

→ 続きはこちら

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メモ:英エコノミスト誌 Grossly distorted picture

英Economist誌には、Economics Focusという経済学に関する1ページのコーナーが毎号も受けられている。先週号に以下の記事が載っていたのを今日になって知った。このブログにポイントを載せようとでも思ったが、すでにいくつか日本語のサイトで取り上げられているので、以下、メモ程度にて。

15日付の英誌エコノミスト最新号は、コラム「エコノミクス・フォーカス」欄で、 ここ数年は日本がゼロ成長、米国は比較的高成長だったとのイメージが定着しているが、 1人当たり実質GDP(国内総生産)で見ると、日本が米国を上回り、先進7カ国中でも 英国に次いで2位の伸び率だったと伝えた。

同誌によると、2007年までの過去5年間の年間平均実質GDP伸び率は、米国が2.9%、日本が2.1%で、米国が大きく上回っている。ところが、 平均的な生活水準のおよその目安である1人当たりGDPで見ると、日本が2.1%、 米国は1.9%と、伸び率が逆転する。 同誌は、1人当たりGDPが経済状態の最良の尺度とすれば、リセッション(景気後退)の標準的な定義(四半期ベースで2期連続のマイナス成長)にも欠陥がありそうだと指摘した。例えば、日本の場合、成長率がゼロでも、人口が減少しているのだから、 1人当たりの生活水準はそれだけ豊かになっている。 これに対し米国では、昨年第4四半期のGDP伸び率が年率で0.6%となったが、 1人当たりの実質所得は0.4%減少、リセッション入りしたとみられる。
   同誌は「日本政府が1人当たり所得の伸びをもっと強調していれば、消費者も元気になり、支出を増やしていただろう」とし、「そうなれば日本のGDPの伸びももっと力強くなっていたはずだ」と結んでいる。
http://www.zakzak.co.jp/top/2008_03/t2008031709_all.html
(2ch経由。ちなみにこのスレッドでのコメントはピントはずれのものばかり。)

原文はhttp://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=10852462

一人当たりGDPは豊かさの指標であり、その成長率を見るのは当然のこと。しかし、そのような当たり前のことは実はそれほど当たり前に行われていなかったのが実態なのだろうか。市場全体を相手にする企業等にとっては、一人当たりのGDP成長率よりもGDPそのものの成長率の方が重要であろうから、むしろそうした企業等のサイドの立場でGDPという指標が見られているのが一般的ということなのだろうか。

日本がG7中で第2位というのは確かに意外ではあるが、このことは少子化の議論との関係で興味深い。少子化が問題だとする一般的に広まっている見解に対しては、人口減少自体は問題ではないとの見解がある(例えば、大和総研原田泰氏)。今回のエコノミスト誌が示した数字もこうした視点から議論してみると面白いだろう。

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ケインズ"...In the long run we are all dead..."の部分の和訳

Paul Krugman がブログでAlan Greenspanを批判している。自分がFRB議長であったときにバブルを見ようとせず何もしなかったのに、現在の米国の金融危機に対して淡々と評価をし、レッセ・フェールを再確認して文章(FTへの寄稿)を終えているGreenspanの姿勢を批判したのだが、その中でKrugmanは、ケインズの『貨幣改革論』での有名な文章:

What Keynes said:

In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

を引用している。Greenspanをケインズがここで批判的に書いているようなエコノミストであるといっているのだが、この部分の和訳を、参考までにググッてみた(英語の意味は大体分かるのだが、日本語にする時どうするかとふと思ったので)。実は、ここの部分のすべての日本語訳を載せたサイトはほとんどないことが分かったのだが、最初に、官僚ブログで有名なbewaad氏のブログのプロフィールが出てくる。bewaadというHNはまさにこのケインズの文章に由来するからだが、そこでは一つ前の文章から書き始められているが、

This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

(長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。 大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。)

という訳。bewaad氏自身の考え方まで織り込んでしまっている。さて、もう一つの検索結果もみると、

■This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

政府や専門家の思わせぶりな甘言にもかかわらず、長期不況からの出口は依然として見えないが、日銀を含む経済官僚や銀行家、経済学者、エコノミスト、諸々のアナリスト(w の無能さが白日のもとにさらされたことだけは良いことだったと思う。さて上の英語はケインズの有名な言葉だが、以下の訳はいかがなものか。

(1)長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。
(2)・・・・長期的にみると、われわれはみな死んでしまう。 嵐の最中にあって、経済学者にいえることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である

(1)は先ほどのbewaad氏の訳。(2)は出典不明(ケインズ全集?)。いずれにしろ、「以下の訳はいかがなものか」というのは同感。たいした能力もないが、私なりに訳してみると、

「この"長期"というものは、現下の問題に対しては誤った指針になる。長期的には我々はみな死んでしまっているのだ。経済学者が、嵐の吹くような激動の時期に「嵐が遠く過ぎ去ったときには海は再び平穏になるものだ」ということしか言えないのであれば、彼らは、あまりに安易で無用な仕事を自分に課していることになる。」

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海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書):まとめ

先日(3月11日)の八重洲ブックセンターでのトークショーは、この本と、中島聡氏の『おもてなし経営学』の出版を記念していたものであった。その模様の概要にも書いたが、トークショーの際には本書を読んでいなかったので、さっそく読んでみた。

 

タイトルの「パラダイス鎖国」は著者が2005年の夏にブログした言葉。著者によると、

 
   

「もう日本人は海外に行きたくなくなったし、海外のことに興味がなくなったのかもしれない」と感じた。そして、その状態を「パラダイス鎖国」と名づけた。(p13)

 

現在の日本の状態を指すものとして、知る人ぞ知る言葉である(なお、同類の状態の日本を指す言葉として、「ガラパゴス化」という表現もされる)。そうした言葉を生み出した海部氏の著書として、待望の本である。

 

さて、本書の内容だが、次のとおりの構成となっている。

 
   

第1章「「パラダイス鎖国」の衝撃

   

「パラダイス鎖国」の状態の日本を示していると言える事例を紹介。海外旅行に行かなくなった日本人、邦画・Jポップの興隆と洋画・洋楽への興味の低下、海外(アメリカ)で人畜無害となってきた日本人のイメージ、携帯電話をはじめとする電機産業の内弁慶ぶり、など。

   

第2章「閉じていく日本」

   

これまでの日本のグローバル化は、2つの公式、すなわち「公式1:数の多い方が勝ち」、「公式2:グローバル・ブランドの確立と維持」によってきたが、その後の新たな公式が見つかっていない。「パラダイス鎖国」となった日本には、(1)「海外におけるジャパン・ブランドの低下」、(2)「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」、(3)「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」、という3つの問題がある。

   

第3章「日本の選択肢」

   

アメリカは「パラダイス鎖国」の先輩であるが、各種のモデルが存在する多様性をもっており、そこに「内なる黒船」によるイノベーションベースの経済が成立している。「パラダイス鎖国」となった今の日本には、(1)これまでの「果てしなき生産性向上戦略」をとる(マイナーモデルチェンジ)か(2)新しく「試行錯誤戦略」をとる(フルモデルチェンジ)かの2つの選択肢があるが、「ゆるやかな開国」で、イノベーションベースを起こして成功する経済、「変化を先取りする体質」を目指すべき。この際、「ゆるやかな開国」とは、多様性のあるものが共存すること。そこに、「厳しいぬるま湯」を作り出し、ここから「内なる黒船」を生み出すことが必要である。

   

第4章「日本人とパラダイス鎖国」

   

イノベーションを起こすには「プチ変人」を育てて受け容れることが必要である。また、現在の日本では昔ながらの雇用慣行が阻害要因になっていることが多いが、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすればゆるやかな開国も進む。時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうべき。いま、多くの普通の日本人が軽やかなグローバル化を選んでいる。「パラダイス鎖国」の一番危険な点はバランス感覚をなくすこと。少しずつ開国へ向かっていこう。

 

著者が言いたいことは感覚的によく分かるものだし、個々の表現・内容を見ると特に難しいものはない。したがって、多分、多くの人は読みやすい本だと思うだろう。しかし、いくつかの事項がごちゃ混ぜになっており、また「?」と思われるようなところもあって、(意外に思われるかもしれないが)実際のところ、上のようにロジックを整理してまとめるのには思ったよりも時間がかかった。

 

そういうこともあって、本書に対する評価については、改めて書くことにしたい。→ 書評(3/23)

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書評:改めて「すごい製造業」(中沢孝夫著、朝日新書)について

この本については、以前書評をこのブログで書き、それとほぼ同じものをAmazonのカスタマーレビューに書いた。あまりに安易に日本の製造業を礼賛するばかりの文章で、辟易して、少々怒りをこめて書いたのだが、さきほどAmazonのレビューをみたら、10人中このレビューが参考になった人は0人(!)ということが判明した。

 

まあ、上記のごとくで、割と粗雑に書いてしまった文章であるので、今にして思えば、参考になると思う人が少なくても仕方がないとは思うのだが、本書については他に2つのレビューが載っていて、それらがともに★5つをつけているのには、正直いって驚いている(しかも、これらレビューを参考にしたと評価した人ばかりである)。

 

それを引用させていただくと、一つ目は、

 
   

売れ行きが好評なようでうれしい。それだけ関心が高い主題を扱ったということだからだ。と同時に、製造業の中でリーダー的な立場にある企業の事例を散りばめて自社の取り組みに参考になると思えるから購入するのだろう。本書をどう生かすかは、読者の器量と努力にある。日本には「すごい製造業」がまだまだたくさんある。ただし、それらの企業が東アジアの企業と連携して国内の企業成果が上がっていることも忘れてはなるまい。      
日本の製造業のすごさを人材育成力にみる著者の視点は正しい。      
(中略)

   

『日本は没落する』とかいった本がベストセラーになり、カスタマーレビューも多く寄せられているような風潮は転換させる必要がある。

 

というもの。もう一つは、

 
   

製造業、とりわけ中小のものづくり企業は地味である。ソフト系、情報系の会社や一部のサービス業とは対照的だ。しかし、華やかな会社に就職すれば活躍できるとはかぎらない。まして、そこで働くことが幸せだという保証はない。本書は、地味だけれどもやりがいのある中小製造業の魅力を余すところなく伝えてくれる。      
ものづくりに関する本の多くは経営学者によって書かれたものである。それに対して本書は、現場を知り尽くした評論家であり学者でもある著者によって書かれたものであり、行間には著者の直感的な理解や深い洞察があふれている。

 

というもの。

 

これを読んで、再び頭を抱えてしまった。なぜこんなべた褒めの言葉を臆面もなく書けるのだろう?正直にいって、大変心配な気分になった。

 

評価の根拠については、以前の書評にはちゃんと書かなかったので、今回書いておこうと思う。

 

まず、これは前の書評でも書いたつもりだが、私は、本書に書かれているような、日本において多くの製造業の現場に強みがあることを否定するつもりはない(人材育成を含めて)。ただ、日本の製造業の現場の強さ(中小企業における強さを含む)については、何もこの本によらなくても既に知られていることであって、別に本書に高評価を与える理由にはならない。本書に書いてある例を知っていたわけではないが、これだけで本書に星5つを付けるほどのものとは思えなかった。

 

それよりも本書で非常に問題だと思うのは、一部の現場を取り上げるだけで、「日本はこんなすぐれた現場があるから大丈夫なんだ」という安直な楽観論を、具体的な根拠もなく本書全体を通じて語っていることである。 これは論理性が欠如しているだけでなく、現在の日本の問題を覆い隠そうとするものである。

 

まず、論理的にいえば、日本のある製造業の現場をみてこれは凄いというものがあったとする。しかし、日本には、これ以外に、すごくない製造業の現場もたくさんあるだろう(少なくとも論理的にはありうる)し、サービス業の業務もある。したがって、日本全体として現場がすごい、という命題は、本書から読み取ることは不可能である。また「現場が凄いこと=日本が大丈夫」という命題を理由もなしに説明されている。これでは、論理もへったくれもあったものではない。前の書評では「牽強付会」と書いたが、それはこのようなことを指している。「すごい製造業」という一部のミクロの事象をみて、大きな日本全体のマクロの事象の将来を語っているからだ。これは論理として致命的な欠落ある議論といわざるを得ない。大学教員がこのようなずさんな論理を展開してよいのだろうか?

 

また、現実に、日本の民間部門は少しも大丈夫だと安心できる状況にはない。現在の日本経済が直面している生産性の低さという、数字に裏付けられた現実を著者はどう考えているのだろうか。日本の生産性は他の先進諸国に比べて著しく低く低迷しており、特に、本書で扱っている製造業よりもサービス業の生産性が低い(先進国ではGDPの中でサービス業の比重が高まるのが通常であり、日本もその例外ではない)。「生産性が低い」ということは、経済成長率が低くなる、ということである。サービス業の比重が高まらざるをえない今、生産性の低い現状が問題でない訳はない。日本として深刻に考える時期にあるのだ。そうした時に、「製造業があるから日本の将来は大丈夫だ」という言説を聞かされてもまったくのピントはずれの議論にしか聞こえないだろう。著者のいう「すごい製造業」は日本に存在しているが、それは以前から存在しているのだが、それは問題の解決になっていないのである。劣った製造業の現場、サービス業の現場等がむしろ沢山あるはずで、そこには目をつむって、見栄えのよい所だけを語って日本全体について楽観できるという議論を振りまくというのは、明らかに偏っているし、読者に重要な問題を覆い隠すものではないか。

 

要するに、こうした状況にあって、本書のような根拠のない楽観論を振りまくのは、拠り所を求めたい人々を安心するだけにとどまり、むしろ問題を隠す働きをしてしまう。その意味で、大いに警戒すべき議論なのだ。

 

以上から、本書の評価が低いのはやむを得ない。すぐれた現場を紹介することに意味はないわけではないであろうが、本書はそこで終わるべきであった。また、そこにとどまらず、問題の多い現場、サービス業、そうした分野について目をつむらずに書くべきであった。しかし、著者は「日本は大丈夫」という、まったく安易で偏った楽観論を振りまいている。

 

著者は、大学教員である。大学教員たる者が、自分の「信念」ばかりをを語り、論理性の欠いた根拠のない日本楽観論を振りまくのはいかがなものか。また、本書に好意的なレビューをする人々は、安逸な気分に浸りたい人たちなのか。私は日本没落論を支持する者ではないが、日本楽観論も支持しない。著者やレビューワには猛省を求めたい気分である。

 

##Amazonの書評のほうも修正しました。

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Financial Times: One-Way Street?を読んで

別に意図したわけではないが、一昨日に続き、英国の記事から。今回はFinancial Timesの"One-way street?: As its companies expand abroad, Japan erects new barriers at home" と題された3月2日付の解説記事である。

 

実は、一昨日(3月5日)の外務省報道官の会見録をネットで見ると、次のようなことが書いてある。

 
   

(報道官)3日付の英字紙フィナンシャル・タイムズ紙に、あたかも日本が外国人投資家或いは外国投資を制限するような、忌避するような対応をとっているといった批判記事が掲載されました。皆様の中にも御覧になった方はおられると思います。ここにお持ちしましたけれども、非常にセンセーショナルな、日の丸を進入禁止のマークに準えて、かつ日本は新たな障壁を構築するという、非常にミスリーディングな見出しだと思います。日本政府として、やはり反論をしたいということで、この場で政府の考えを申し述べたいと思います。      
勿論、まずこの見出しが、全く日本の直接投資受け入れに対するオープンな姿勢を正確に伝えるものではないということを指摘したいと思います。また、この記事の中で、日本政府或いは日本全体の取組みを正当に報じていないということからも、極めてバランスを失した内容だと思っております。      
そう申し上げた上で、日本政府としては福田総理の強いリーダーシップの下、我が国の経済成長実現の為、対日投資などの市場開放努力を進めており、先般のダボス会議においても福田総理から対日投資を歓迎する旨のメッセージを発出したところです。政府は引き続き現在の対日直接投資倍増計画の達成、即ち 2006年の対日直接投資GDP比を2010年までに倍増させ、2010年には5%程度を達成するという目標を立てております。その為にも、対日投資促進の為に策定したプログラムを政府一丸となって着実に実施し、我が国の投資環境の一層の改善を進めていく考えです。      
この場で私は、日本政府がそうした投資環境の一層の改善、対日投資の更なる増加ということに対して明確なコミットメントを表明しているということを強調させて頂きたいと思います。

   

(問)フィナンシャル・タイムズに対して、直接的に何か申し入れたりはしないのですか。

   

(報道官)反論投稿することについても、ひとつのオプションとして念頭に置きつつ、現在検討中です。

 

ここで、外務報道官が言っている、「非常にセンセーショナルな、日の丸を進入禁止のマークに準えて、かつ日本は新たな障壁を構築するという、非常にミスリーディングな見出し」というのは、このFTの記事の冒頭にある、日の丸の中に、NO ENTRYと書かれた絵である。報道官(あるいは外務省首脳)の癇に障るのも無理はないと思うものの、むしろ、この図を描いたFTの(ブラック)ユーモアのセンスの方を感じる。

 

それはともかく、FTの記事はどのような内容かというと、簡単だが、次のようなものである。

 
   

・海外からの投資を阻害するような一連の動きのあとでの、北畑経産省事務次官の発言(注:「デイトレーダは浮気者、無責任、強欲」といった最近問題となった講演での発言)は、日本は海外投資を歓迎していないのではないかという疑念を強めた。

   

・日本は、しばしば保護主義と非難される(鎖国時代からの歴史を叙述)。しかし、東証上場企業の持分の28%が海外勢になった今、政治家、官僚、産業界の”鉄のトライアングル”は再び外資から日本を守ろうと決意したようにも見える。

   

・政府では、空港管理会社への外資規制設定の試み、外資による10%超の出資の届出義務を拡大(外為法)、Jパワー(電源開発)へのTCI出資比率増加の拒否の可能性など。

   

・企業でも、多くの企業がポイズンピルなど企業防衛策、株式持合いの増加、新日鉄のミタルへの防衛策など。

   

・これらは、日本への海外からの直接投資の比率を倍増しようとする政府の約束とは整合しない。

   

・確かに、以前に比べると外資は入っているし、実際、最も競争力のある日本企業の中で外資の比率は多い企業がある。しかし、日本では経営陣が会社にとって何がよいかを一番知っており、株主のいうことを聞くのは誤りという見方が強い残っている、とワカスギ氏はいう。

   

・最近、懸念・恐怖を引き起こしているのは、外国ファンド(たとえばスティールパートナーズやSWF)の登場。これらによる買収が恐れられている。三角合併の制度はできたが、ビジネスのエスタブリッシュメントのロビイングの後、これを使うのは難しくなった。

   

・官僚もビジネスリーダーも、公式には保護主義の増長を強く否定する。確かに、外国嫌いではないかもしれないが、外国人投資家や市場の力へのバックラッシュを反映したものであることは明らかである。

   

・もちろん、これらの動きに対する国内からの強い反対も存在する。しかし、今は、外資へのより大きな開放や市場資本主義の規律による成長よりも、古いシステムの安定に傾いているように見える。

   

・25年間日本で働いた経験を持つある米国政府の元職員は、「危険なのは、そのような偏狭さが成長に必要な日本の競争力を脅かすこと。多くの日本人は外界と隔絶して過ごしやすい温室にひきこもることのできた時代を求めているようだ。しかし、温室にも、日光と空気は必要だーたとえそれが国際競争の厳しい風を意味することになろうとも」

   

・過去、外国製品に市場を閉ざした事例(1980年代の牛肉輸入、欧州からのスキー輸入)があったが、その後市場を開放してきた。しかし、それでも日本市場は、貿易障壁によってではなく、諸外国と異なった基準があることによって、依然として外国製品にとって参入が難しい市場のままである。

 

このFTの記事には、確かに、ある種のバイアスがある。ライブドアや村上ファンドという国内のファンドへ多くの経営者たちが警戒したことに見られるように、多くの日本の経営者がおそれているのは、外国の資本だけでなく、国内の資本も含めたアウトサイダー、典型的には投資家に物をいうアクティブなファンドが資本市場を通じて経営に口を出すことであると思われる(問題となった北畑次官の発言もその一つ)。その意味で、「日本は外資嫌い」という問題の設定の仕方は、海外の読者の先入観に媚びているよいうに思われる。

 

しかし、それでも、これらファンドの主体は海外投資家であるし、また三角合併に関する消極的な姿勢を見ると、日本の産業界に外資への警戒が根強く残っていることは多かれ少なかれ間違いないように思う。

 

冒頭に掲げた外務省報道官の記事への反論(日本は海外投資にオープンであり、これを倍増しようとしている)がまったく十分な反論になっていないことは、FTの記事が、すでに政府が公にはそのような反論をしていることを既に盛り込んでいることして明らかである。

 

外務省は、おそらくは対外広報の観点から、そのまま放置しておくのはまずいと考えて、(少なくとも形式だけでも)反論しておく必要があると考えたのだと思う。実際、政府が海外投資の比率を倍増させようとしているのだから、海外投資に消極的だというイメージを海外に与えることはマイナスであり、それを打ち消す努力は示す必要がある。それは理解できる。

 

しかしながら、政府が実際に海外投資の比率を倍増させようと努力しているとしても、問題は、そうした総論的な取り組みの一方で、具体的に利害が直接に絡む各論(三角合併、空港運営会社の例を見よ)になると産業界、政界、官界に外資への警戒が現われることである(いわば、「総論賛成、各論反対」である)。それがこのFTの記事の言いたいことであるはずである。である以上、外務省報道官の反論は有効な反論になりえない。

 

日本のマクロ経済の大きな問題の一つとなっているのは、生産性の低さである(諸外国と比べて非常に低い現状)。生産性が低いということは、持てる資源を生産のために効率的に利用できていないということである。このことは、たとえば企業の利益率の低さにあらわれているし、サービス残業等に見られる過剰労働からも分かることである。日本のIT関係企業はその良い例であろう(参考)。昨日三菱電機が発表したように、過剰と言われた国内携帯電話事業メーカの中から、撤退がようやく起こりはじめていいるが、これが今頃になって行われ始めたところに問題の深刻さがある。こうなった一因に、コーポレートガバナンスが十分に働いていないことがあると考えるのは当然である。

 

この点で、海外をはじめとする外部の資本の力を借りるということは有効な手段の一つであろう(それは政府も海外からの投資受け入れを積極的に進めるべきだと言っている一つの要因であるはずである)。CNETに「海外機関投資家からみた日本企業のコーポレートガバナンス」という記事がのっているが、この点で、ここにあるような海外の機関投資家が日本についてどうおもっているかという見解は無視すべきではない。まずは、直接に利害に関係する産業界の抵抗感をどうするかであると思われる。ただ、長年の慣行を変えるものであるし、企業内で長年働いてきた経営者や管理職等にとっては自分の地位を危うくするものであり、なかなかすぐにこの抵抗感を解消はできないだろう。深刻な問題である。

 

その意味でいうと、(直接自分の利害に関係する程度は小さく)制度を決める地位にある政治家及び官僚の行動も重要である。直接投資倍増のための政府の取り組みはぜひ進めていただきたいが、しかし、一方で不安材料は、FTの記事にあるように事欠かない。昨日の日経新聞の「経済教室」でも、全国社外取締役ネットワーク代表理事の田村達也氏が、経済産業省を中心として行われた政府での買収防止策の指針の策定作業を行った「企業価値研究会」のメンバーが経営者的な立場の人間が中心となって構成される一方で、機関投資家(株主)を代表する人間が含まれていなかった、と政府の経営者ベッタリの姿勢を批判していた。こうした、現在の企業経営者に偏った(あるいは「媚びた」)、これまでの政府(政界、官界)の姿勢(消費者行政の観点からも批判されているが)は、大いに改める必要があろう。少なくとも、外資受け入れについて、外務省報道官が言っているようには、十分な努力がおこなわれていると言いがたいところがあるように思う。

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