書評

中島聡『おもてなしの経営学』(アスキー新書)について

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55) おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55)

著者:中島 聡
販売元:アスキー
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先日、海部美知『パラダイス鎖国』の書評を書いたので、先月の八重洲ブックセンターでの対談のもう一人の主である中島氏の本書を読んでみた。

 

いきなり書評を書こうとも思ったのだが、それよりもAmazonでのレビューがこの点で厳しいことが多く書かれているので、それをダシにして感想を書いてみたい。

 
   

(1)「著者のblogを愛読しているので、期待していたが、雑誌の記事の採録や対談の記録で、資源の再利用を見ている感じ。[星3つ]

 
   

(2) ブログを日ごろから読んでいたので予約までして楽しみにしていた本だが、271ページの本書の123ページ以降、すなわち半分以上のページ、が特別対談で占められているというなんとも期待を裏切られる作品。第一章「おもてなしの経営学」は、ほぼブログと同じ程度の情報量しかない。 [星1つ]

 

たしかに、気持ちは分からなくはないが、先月の対談でも中島氏本人が「海部さんの本ほど論理立ててまとめられていない」「書くのに苦労して、プログで書いたことと対談を入れてなんとか一冊の本になった」という趣旨のことを既に言われたので、読後に違和感や失望はなかった。

 

上の2つの意見には、アマゾンレビューでも投票が多い(しかも「参考になった」とするものが多数)のだが、これら2つの意見は、はっきりに言うと、blogを普段から読んでいる人が勝手な期待をしてそれが裏切られただけのことにすぎない。世の中には中島氏のブログLife is beautifulを読んでいない人はたくさんいるのだ。だからこそ本を出したということもあるだろう。世の中には対談だけを収めた本も数多くある。本書に対する正当な評価とはいえないだろう。

 
   

(2)(続き)経営にはおもてなしが重要という主張に対して、同意・反対できるだけの論理が展開されていないため、本として出版するレベルにまで昇華されてないように感じられた。ブログでは、その程度の内容でエントリーしてもいいだろうが、本として出版する以上、もうすこし踏み込んだ考察がほしかった。

 
   

(3) 同じようなことを見方を変えて書いていたりするのでときどき「あれ?前のページでも同じことを言っていたような」という気分になります。[星3つ]

 

これらの指摘には同意。ただ、これは先にも述べたように、書いた本人がよく分かっていること。むしろ、この問題は、編集者に責任がある。中島氏はブログは書いているけれどもプロの書き手とは言い難いのだから、編集者がもう少し時間をかけてきちんとサポートしてあげるべきだろう。アスキーの早く出版したい(しかも海部氏の『パラダイス鎖国』と合わせて)との意向が透けて見えるような気がする。

 

では、私はどう思ったかというと、上記の欠点はあるとはいえ、素直に面白いと思った。実は中島氏のことを失礼ながらそれほどよく知っていたわけではなく(ブログも去年の中ごろから読み始めたばかり)、本書を読んで、日本人にも、こうした人材がいたのかと今頃になって感心した。彼のブログはギークたちがよく読んでいるらしいが、分かるような気がする

 

確かに、本書では中島氏の言いたいことが整理されておらず、特に第2章はタイトルが「ITビジネス蘊蓄」(!)というふざけたものになっていることから分かるとおり、ただ彼の過去のブログのエントリーを並べただけなので、分かりにくい。むしろ、第3章の対談(特に古川亨氏との対談、梅田氏との対談)を読むと、彼が考えていることがよく分かるように思う(ひろゆきとの対談は、むしろひろゆきの方が主役という感じ)。対談という形式が、対談相手とのインタラクションの中で彼の言いたいことを分かるように引き出しているように思う。

 

もちろん、彼のいう「ユーザー・エクスペリエンス」=「おもてなし」の重要性にはうなずけるところが多い(1)(もっとも、私は、この言葉よりも、それと対比される「床屋の満足」というフレーズが気に入ってしまったが(2))。中島氏の「おもてなし」は、ものづくり寄席で聞いた阿部誠教授の話にもつながると思った。

 

(1) ただ、日本のシステム構築は、ユーザのニーズに合わせてカスタマイズしすぎることが逆に問題になっているようだから、「おもてなし」も時と場合によるということはいえるのかもしれない

 

(2) 既存の言葉で置き換えると、それぞれ「マーケット・イン」、それに対比される「プロダクト・アウト」といったところだろう。)

 

 

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書評:『幕臣たちの明治維新』(安藤優一郎著、講談社現代新書)

幕臣たちの明治維新 (講談社現代新書 1931) 幕臣たちの明治維新 (講談社現代新書 1931)

著者:安藤 優一郎

販売元:講談社
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本屋で気軽に手をとって思わず買ってしまった本。近代史の本にはどうしても手を出したくなってしまう。 

さて、本書は、明治政府成立後の徳川家家臣(幕臣)たちのその後を取り扱った本である。勝海舟、榎本武揚、渋沢栄一等の一部幕臣が明治治世下でも活躍したことは知られているが、大多数の旗本・御家人たちが明治以降どのような運命をたどったのか、一般に知っている人は少ないと思う(私もその一人)。そうした敗者の歴史を辿ったものとして興味深い本である。

明治政府の命で静岡に移った徳川家は家臣たちに、明治政府への出仕、自分で農業や商売を始めるという選択肢も与えたが、ほとんどの家臣は、静岡藩が財政逼迫で大幅なリストラが必要だったにもかかわらず無禄覚悟で静岡に移住する途を選び、結果として過酷な生活を強いられた。自分で商売等を始めた家臣もその多くは厳しい生活を送った。明治政府に出仕した者も人々から白眼視された、という。その他、幕臣たちは人材の宝庫で明治政府からのヘッドハントがあったこと、明治政府の中級以下の官僚の多くが旧幕臣だったこと、幕府のお膝元東京では反明治政府の裏返しとして西南戦争での西郷人気が高かったこと、そして明治22年に開催された東京開市(=家康江戸入城)300年祭は幕臣も集まったほか江戸を懐かしむ沢山の市民で大人気を博したこと等が語られている。

我々が知る薩長等の勝者の歴史と異なる、一般に知られない敗者たる幕臣の歴史、加えて当時の東京の人々の幕府への思慕を要領よく分かりやすく書いている。気軽に読みこなせるのは、さすがに講談社現代新書といったところだ。ただ、手軽さを意識したのだろうか、大まかな点だけが語られている感があり、敗者の歴史として読むには内容にやや物足りなさを覚えた。例えば、一般の旧幕臣たちが明治政府の治世で何を思って生きたのか、彼らの生の声をもう少し取り上げても良かったのではないか(本書の記述からある程度は想像可能だが)。また、本書で一部が取り上げられている山本政恒の自分史の記述も興味深く、これを中心に据えて書いても面白かったのではないかと思う。

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書評:海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書)

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54) パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54)

著者:海部 美知
販売元:アスキー
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本書については、先日このブログでまとめを書いたところだが、それに対する自分の考えを整理するに時間がかかってしまった。言い足りないことも多々あるだが、ひとまずの整理はできたので、以下に記してみたい

 

1.「パラダイス鎖国」というベクトル

  「パラダイス鎖国」とは、経済の実体を示すだけではなくて、内向きにこもって安住していたいという心理的な傾向も示すような響きのある言葉である。著者が意識しているかどうか分からないが、この言葉には、日本経済とか、企業活動とか、あるいは個人の消費活動とかいった「実体的なもの」に関するものと、人々の意識や心理に関するものの2種類が含意されていて、1980年代やそれ以前と比較した時の、現在の日本の経済の実体と心理の「方向性」あるいは「ベクトル」をうまく表現しているように思われた。 

確かに、絶対水準で1980年代と比べると、実体面では、明らかに日本市場の対外開放度や企業のグローバル化度は高いであろう。日々の生活においても、外国人の姿(欧米人だけでなくアジアからの人々、それ以外の地域の人々)は当たり前のように身の回りで見られ、心理的な抵抗感や偏見も少なくなっているように思われる。しかし、「ベクトル」という点からすれば、かつてのように明らかな開国へ向かっていた方向とは異なり、できれば内に閉じこもうという傾向が目立つようになっている。本書の第一章で書かれているいくつかの事例はまさにそのようなものだが、このほかにも、例えば、先日のFTの記事について書いたように、日本の企業社会や政府は、外資を含めヨソモノを相変わらず受け容れることに相変わらず消極的な傾向が強いことをあげることができる。近年、マスコミやネットで見られる日本に閉じこもろうとするような退行的な言論も別の一例としてあげることができるかもしれない。こうした日本で広く見られる実体的な事象、そしてそれらに共通する心理的傾向を、「パラダイス鎖国」という言葉で適格に表現しているのが著者の秀逸なところである。私が「パラダイス鎖国」というフレーズに共感してしまうのは、こうした1980年代までの日本で感じられた「ベクトル」と、現在の日本で感じられる「ベクトル」との間にある明らかな相違を実感するからだと思う。 

 

2.議論の混乱 

ただ、こうした「パラダイス鎖国」状態がなぜ克服され、「ゆるやかな開国」に向けて進むべきなのか、という点についての本書の説明には、どうも説得力があまり感じられない。もう少し具体的にいうと、パラダイス鎖国について語った第1章、第2章と、多様性のある社会へ進むことを問いた第3章、第4章との間には、齟齬が感じられ、すっきりつながってこないのである。なぜなら、第1章、第2章では国を開くか閉ざすかという問題が主に述べられているのに対して、第3章、第4章で語られているのは、むしろ多様性をもった社会で試行錯誤を繰り返していくかどうか、という点だからである。わかりやすく言えば、著者が本書の後半で主張する多様な価値観をもった人々がいろいろと試行錯誤を繰り返していってイノベーションを生み出していくような社会は、海外との関係が一切なく、国内だけでもを作ることは十分に考えられるからである。無論、多様な価値観を持った人々には海外の人間も含まれうるし、おそらくその方が多様性が高まり著者は望ましいと考えるだろうと思うが、海外に開かれることは第3章や第4章で述べられる著者の主張においては絶対的な必要条件ではないように読める。 

こうなってしまったのには、一つには、著者が「海外に出るか/国内に留まるか」というモノサシだけで現状の問題を語ろうとしまったからではないかと思う。確かに、この尺度で見た内向きの傾向というのは今の日本の一つの傾向を端的に表している(その意味では「鎖国」という言葉は適切な言葉である)。しかし、著者が本書の後半で述べる主張からすれば、前半では文字通りの「鎖国」状態だけではなく、「居心地の良い今の環境、自分がよく知り慣れ親しんでいるものに安住したい」「新しいものを危険を冒して取りに行くよりも、既得のものを守ろう」という「守り」の心理や行動、さらに、それに対する批判に対して、むしろ「現在の居心地のよい環境や自分たちの慣れ親しんだものを積極的に肯定しよう、自分たちの良い面を見よう」という「反動」の心理や行動を、現在の日本の問題とすべきであったように思う。それほど「パラダイス鎖国」というフレーズはインパクトが強い表現なのだろうが、逆に著者自身がその言葉(特に「鎖国」の部分)に引きずられて議論がゆがめられてしまった感じだ。 

こうした歪みがあるせいなのだろうか、特に第2章は何がいいたいのかよく分からなくなっているように思われる。例えば、著者は「パラダイス鎖国」現象の本当の問題として、「海外におけるジャパン・ブランドの低下」「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」の3点であるが、よく考えると、これらがどうして問題なのかがはっきりしない。 

       
  • 「ジャパン・ブランド」がどうして重要なのだろうか。確かに、海外で「ブランド」を確立していれば海外で売れるとは思うが、それは一部の輸出産業(特に大衆消費財)についていえることであり、必須の条件とはいえないのではないだろうかまた、これが個々の企業だけではなく、「内需中心」の日本経済全体、あるいは日本の個々人にとってどのような意味で重要なのかが分からない。個々の企業の製品のプランドを「ジャパン」という国籍と結び付けている点も安易に思える。
  •    
  • 「パラダイス鎖国」という言葉が「外界には関心を持っていなので、特に対応しなくてよいだろう」という意識のことを指すのだとしたら、「変化が遅くて外界に対応できていないこと」自体はトートロジーに近いし、そもそも日本が「変化が遅くて外界に対応できない」というのは昔から言われていたことのように思う。むしろ、このことがどのような意味で問題なのか、すなわち、外界の変化になぜ迅速に対応しなければならないのか、という点をもっと述べるべきであっただろう。その際には、この点が誰(何)にとって重要なのかという説明も必要である。
  •    
  • 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」という点も、かつてとの比較で現在日本が「パラダイス鎖国」になったことの説明の一つになっているに過ぎず、これが、誰(何)にとってどんな問題なのかが語られていないように思う。著者の考え方は、海外へのあこがれが日本人の労働インセンティブにかつてはつながった、そして海外へのあこがれの喪失が日本人の労働インセンティブの喪失につながっている、という議論に私には読めたが、確かにそういう関係は一部にはあるだろうとは思うものの、海外へのあこがれで人々の労働インセンティブの多くを説明するのはかなりバランスを欠いた議論のように思える。 

こうして見ていくと、筆者の議論にはある種の思い込みや偏りがあってそれが混乱を生んでいるところがあると思う。一つは、海外への憧れ(人々のインセンティブ)→輸出(海外で売れること)→日本製というブランドの確立→経済発展/国際競争力(?)というような図式を想定していると思われることである。一部にはそうした関係もあることは否定しないが、海外での日本企業の活動自体を過剰に重視していて、これですべて説明するのは経済学的に言って無理がある。日本のように内需中心の大国では、国内での経済活動の方を問題とする考え方の方が真っ当である。 

また、著者の経歴からするとやむをえない気もするが、どうしても海外で製品を売るような産業、特に携帯電話等の電機産業に偏りすぎている印象がある(あくまでも憶測だが、本書やブログの読者にも多少の偏りはあるのではないか)。上で述べたとおり、国内中心の産業(例えばサービス産業)はどうなのか。また、海外での売り上げの大きい産業といっても、電機メーカのほかに、自動車メーカはもちろん、多少地味だが素材メーカ等、世界的シェアが高い企業は日本にかなり存在する。むしろ、日本の電機業界は、モジュール化の進行の中で比較優位を失っている点もあるので、これだけをもって、現状の日本全体の問題点を語るのは十分とは言えないだろう。 

さらに、本書全体を通じてそうなのだが、日本の何について語っているのか、という点もごっちゃになっている印象がある。つまり、日本社会を構成するひとりひとりの個人(=労働者/消費者)のことか、日本をベースとする企業のことか(なお、本書で語られているのは一部の産業のみ)、それとも日本全体(マクロ経済、社会全体、あるいは国家)のことか、いずれもあまり区別されてないで論じられているように思う。しかし、これらは相互に密接に関連しているものの、これらがすべて同じ方向を向いているはずはないし、いつも同じ利害を共有しているはずもない。多様性のある社会を望む著者の主張からすれば、むしろそれらを明確に区別していくことが必要と思うのだが。 

特に第2章の議論には、他にも問題とすべき点が多いように思う(特に経済学的な視点からすると)。いちいち噛み付ける気力体力能力もないが、一つだけ例を挙げれば、「国際競争力」のランキングを使っていることである。これはいろいろと問題が多く(詳細は省くが、例えば飯田泰之『ダメな議論』(ちくま新書)第5章参照)、これを使って議論するのは不適切と思われる。この第2章に限らず、全体を通しても、議論の組み立てという点でいえば、まだまだ課題が多そうだいというのが本書を読んでの感想である。

 

3.現在の日本の何を問題と考えるべきか 

では、著者が本書の後半で述べる主張の観点から言えば、今の日本の何が問題なのか。現在の日本での様々な現象を考えるに、私は、日本が成熟した先進国となった今、様々な持てる「資源」(金融資産、物的資産、人的資本、さらには技術といったもの)を有効活用することが必要になっているにもかかわらず、それら資源を有効に活用できていないし、また有効に活用すべき術を理解していないことが一番大きいと思う。 

その一つの例は、第4章で述べられている雇用である。本書で問題とされているように、終身雇用的な慣行には利点もあるのだが、必要なところに必要な人材を配分することを難しくするという欠点もある。市場原理は以前よりも導入されており、終身雇用的な雇用慣行もかつての力は失われつつあるが、しかし今だ強固に主要企業のコア部分で継続しており、現状では、人材の有効活用という点では有効に機能していない。 

また、著者のブログで最近述べられている「成長」の話題も、結局、日本企業は持っている資源の使い方が基本的に下手であることを示しているように思う。極端に言っててしまえば、日本企業は、「できるだけ効率的にお金を儲ける」という原理に忠実でなく、手間をかけずに儲けるために知恵を絞ることをサボっているのだ、と私は考えている。 

もはやかつてのように放置していても自然と高度成長が進むような状況は望めず、資源(資産、人的資本など)が限られてきているという環境変化を念頭に置くならば、日本としては、いかにして、この限られた資源を有効に活用していくかという「術」に頭を働かすべきである。今までのようなひたすら一点にむかってひたすら頑張る(こういった姿勢がなぜか日本では美徳とされるのだが)という戦術(著者の言葉でいえば「果てしなき生産性向上戦略」)は、かつては成功したが、それを今なお皆がこぞって続けるのは能がない。まるで、日露戦争で成功した戦術を太平洋戦争でも使い続けた旧軍みたいなものである。著者が本書で主張する国内、既存の組織の資源ばかりに頼らず、多様性を増大させ、「試行錯誤戦略」も採用していくことは投資戦略としても妥当だし、またそうした途を模索していくべきであろう。そうした意味で、著者が本書の後半で述べている方向性には同意できる。「プチ変人」を含めた多様な人材を許容していくこと、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすること、時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうことなどは、確かに有意義であろう。

 

4. 多様性のある社会は実現するか 

しかし、目指すべき方向性があるとしても、それを実現することは別の話である。例えば、著者のいう雇用の流動化についても、かねてより主張する人は多いが、なかなか実現しない。新卒の人間にまで強い終身雇用願望が存在している現状がある。実際、雇用流動化を進めることには中立的な立場の人からも否定的な見解が示されることもある。 

著者の主張するゆるやかな開国、多様性のある社会、あるいは厳しいぬるま湯などをどのように実現するか。どのように日本をフルモデルチェンジしていくのか。ここが大きな課題である。そこは著者の考えを知りたかったところだが、残念ながら、本書はそこには触れていない。どちらかというと、こうしたものをつくりたいという願望を描いたラフな企画書・スケッチに留まっており、その実現性まで考慮したプランに至っていない。その点に本書への物足りなさをを感じたのは事実である。ただ、これが大変難しい課題であるのも事実であり、私もここで論じる余裕はない。 

しかし、それでも、「パラサイト鎖国」論を通じて、現状に感じている閉塞感を打ち破りたいと感じている数多くの個人に、それを解消する未来像を分かりやすく示している点は大いに評価できると思う。心理的な閉塞感の解消を期待させる本書には、共鳴する一般の読者は多いだろうと推測する。その意味では、新書版という手軽な媒体を通じて、日本に住む個々人の意識を徐々に変えていき、それを将来の変革へつなげていく可能性を開いたことにこそ、本書の意義があるのかもしれない。

* 著者は、ブログで「 ち なみに、読者の皆さんへのお願いです。本の感想は、ぜひ、mixiとかのクローズドな媒体だけでなく、アマゾンの書評にも書き込んでください!」と書かれ ているが、とてもAmazonのレビュー(800字)には入りきらないので、ひとまずこのブログに置いておくことにする。Amazonには別途簡潔なバージョンを書ければよいとは思っているが、本書の販売促進からいうと迷惑な書評になってしまうかも。

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海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書):まとめ

先日(3月11日)の八重洲ブックセンターでのトークショーは、この本と、中島聡氏の『おもてなし経営学』の出版を記念していたものであった。その模様の概要にも書いたが、トークショーの際には本書を読んでいなかったので、さっそく読んでみた。

 

タイトルの「パラダイス鎖国」は著者が2005年の夏にブログした言葉。著者によると、

 
   

「もう日本人は海外に行きたくなくなったし、海外のことに興味がなくなったのかもしれない」と感じた。そして、その状態を「パラダイス鎖国」と名づけた。(p13)

 

現在の日本の状態を指すものとして、知る人ぞ知る言葉である(なお、同類の状態の日本を指す言葉として、「ガラパゴス化」という表現もされる)。そうした言葉を生み出した海部氏の著書として、待望の本である。

 

さて、本書の内容だが、次のとおりの構成となっている。

 
   

第1章「「パラダイス鎖国」の衝撃

   

「パラダイス鎖国」の状態の日本を示していると言える事例を紹介。海外旅行に行かなくなった日本人、邦画・Jポップの興隆と洋画・洋楽への興味の低下、海外(アメリカ)で人畜無害となってきた日本人のイメージ、携帯電話をはじめとする電機産業の内弁慶ぶり、など。

   

第2章「閉じていく日本」

   

これまでの日本のグローバル化は、2つの公式、すなわち「公式1:数の多い方が勝ち」、「公式2:グローバル・ブランドの確立と維持」によってきたが、その後の新たな公式が見つかっていない。「パラダイス鎖国」となった日本には、(1)「海外におけるジャパン・ブランドの低下」、(2)「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」、(3)「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」、という3つの問題がある。

   

第3章「日本の選択肢」

   

アメリカは「パラダイス鎖国」の先輩であるが、各種のモデルが存在する多様性をもっており、そこに「内なる黒船」によるイノベーションベースの経済が成立している。「パラダイス鎖国」となった今の日本には、(1)これまでの「果てしなき生産性向上戦略」をとる(マイナーモデルチェンジ)か(2)新しく「試行錯誤戦略」をとる(フルモデルチェンジ)かの2つの選択肢があるが、「ゆるやかな開国」で、イノベーションベースを起こして成功する経済、「変化を先取りする体質」を目指すべき。この際、「ゆるやかな開国」とは、多様性のあるものが共存すること。そこに、「厳しいぬるま湯」を作り出し、ここから「内なる黒船」を生み出すことが必要である。

   

第4章「日本人とパラダイス鎖国」

   

イノベーションを起こすには「プチ変人」を育てて受け容れることが必要である。また、現在の日本では昔ながらの雇用慣行が阻害要因になっていることが多いが、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすればゆるやかな開国も進む。時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうべき。いま、多くの普通の日本人が軽やかなグローバル化を選んでいる。「パラダイス鎖国」の一番危険な点はバランス感覚をなくすこと。少しずつ開国へ向かっていこう。

 

著者が言いたいことは感覚的によく分かるものだし、個々の表現・内容を見ると特に難しいものはない。したがって、多分、多くの人は読みやすい本だと思うだろう。しかし、いくつかの事項がごちゃ混ぜになっており、また「?」と思われるようなところもあって、(意外に思われるかもしれないが)実際のところ、上のようにロジックを整理してまとめるのには思ったよりも時間がかかった。

 

そういうこともあって、本書に対する評価については、改めて書くことにしたい。→ 書評(3/23)

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先月、他に読んだ本

最近、書評のエントリーが多くなっているが、読んだ本すべてについて書評を書いているわけではない。先月は、たとえば、次の本を読んだ。

  まず、坂野潤治「未完の明治維新」(ちくま新書)。

未完の明治維新 (ちくま新書 650) 未完の明治維新 (ちくま新書 650)

著者:坂野 潤治

販売元:筑摩書房
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著者は日本近代政治史の学者で、田原総一郎との対談等も出している人。大正~昭和前期の歴史家というイメージを勝手に持っていたのだが、本書は明治維新期(1864-1880)の政治の図式を扱っている。簡単に言うと、明治維新の構想は、4つほど異なったものがあった。それは、 

       
  • 強兵論(幕末は佐久間象山に始まり、西郷隆盛らに代表される)
  • 富国論(幕末は横井小楠に始まり、大久保利通らに代表される)   
  • 議会論(幕末は大久保忠寛に始まり、板垣退助らに代表される)   
  • 憲法制定論(木戸孝允らに代表される) 

の4勢力である。これらのせめぎ合いで明治維新期の政治は動く、というほど単純な説明ではないが、本書は、これらの4つの基本構想に基づいて幕末~明治初期の政治を整理しており、私にとって政治的な動向がやや分かりにくかった時期に対して良い見通しを与えてくれた。

 

もう一冊は、 小島毅「靖国史観」(ちくま新書)。

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書 652) 靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書 652)

著者:小島 毅

販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

  本書も歴史学者の手によるものだが、とかく問題となりやすい靖国問題について、他の書物とは別の角度から、靖国神社とは元々な存在なのかを明らかにしている。具体的には、 

「国体」「英霊」「維新」 

という、靖国神社に関係する3つの語の意味を明らかにしながら、靖国神社がどういったものかを明らかにしている。新しく知ったことも多く、靖国神社について良い視点を提供してくれたように思う。(そういえば、本書でも触れている三土修平氏の靖国本(以前、大澤真幸氏が評価していた)は積読のままである。) 

これらについては書評を書く余裕がなかったのだが、良書と思ったので、記録としてここに載せておく。

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書評:改めて「すごい製造業」(中沢孝夫著、朝日新書)について

この本については、以前書評をこのブログで書き、それとほぼ同じものをAmazonのカスタマーレビューに書いた。あまりに安易に日本の製造業を礼賛するばかりの文章で、辟易して、少々怒りをこめて書いたのだが、さきほどAmazonのレビューをみたら、10人中このレビューが参考になった人は0人(!)ということが判明した。

 

まあ、上記のごとくで、割と粗雑に書いてしまった文章であるので、今にして思えば、参考になると思う人が少なくても仕方がないとは思うのだが、本書については他に2つのレビューが載っていて、それらがともに★5つをつけているのには、正直いって驚いている(しかも、これらレビューを参考にしたと評価した人ばかりである)。

 

それを引用させていただくと、一つ目は、

 
   

売れ行きが好評なようでうれしい。それだけ関心が高い主題を扱ったということだからだ。と同時に、製造業の中でリーダー的な立場にある企業の事例を散りばめて自社の取り組みに参考になると思えるから購入するのだろう。本書をどう生かすかは、読者の器量と努力にある。日本には「すごい製造業」がまだまだたくさんある。ただし、それらの企業が東アジアの企業と連携して国内の企業成果が上がっていることも忘れてはなるまい。      
日本の製造業のすごさを人材育成力にみる著者の視点は正しい。      
(中略)

   

『日本は没落する』とかいった本がベストセラーになり、カスタマーレビューも多く寄せられているような風潮は転換させる必要がある。

 

というもの。もう一つは、

 
   

製造業、とりわけ中小のものづくり企業は地味である。ソフト系、情報系の会社や一部のサービス業とは対照的だ。しかし、華やかな会社に就職すれば活躍できるとはかぎらない。まして、そこで働くことが幸せだという保証はない。本書は、地味だけれどもやりがいのある中小製造業の魅力を余すところなく伝えてくれる。      
ものづくりに関する本の多くは経営学者によって書かれたものである。それに対して本書は、現場を知り尽くした評論家であり学者でもある著者によって書かれたものであり、行間には著者の直感的な理解や深い洞察があふれている。

 

というもの。

 

これを読んで、再び頭を抱えてしまった。なぜこんなべた褒めの言葉を臆面もなく書けるのだろう?正直にいって、大変心配な気分になった。

 

評価の根拠については、以前の書評にはちゃんと書かなかったので、今回書いておこうと思う。

 

まず、これは前の書評でも書いたつもりだが、私は、本書に書かれているような、日本において多くの製造業の現場に強みがあることを否定するつもりはない(人材育成を含めて)。ただ、日本の製造業の現場の強さ(中小企業における強さを含む)については、何もこの本によらなくても既に知られていることであって、別に本書に高評価を与える理由にはならない。本書に書いてある例を知っていたわけではないが、これだけで本書に星5つを付けるほどのものとは思えなかった。

 

それよりも本書で非常に問題だと思うのは、一部の現場を取り上げるだけで、「日本はこんなすぐれた現場があるから大丈夫なんだ」という安直な楽観論を、具体的な根拠もなく本書全体を通じて語っていることである。 これは論理性が欠如しているだけでなく、現在の日本の問題を覆い隠そうとするものである。

 

まず、論理的にいえば、日本のある製造業の現場をみてこれは凄いというものがあったとする。しかし、日本には、これ以外に、すごくない製造業の現場もたくさんあるだろう(少なくとも論理的にはありうる)し、サービス業の業務もある。したがって、日本全体として現場がすごい、という命題は、本書から読み取ることは不可能である。また「現場が凄いこと=日本が大丈夫」という命題を理由もなしに説明されている。これでは、論理もへったくれもあったものではない。前の書評では「牽強付会」と書いたが、それはこのようなことを指している。「すごい製造業」という一部のミクロの事象をみて、大きな日本全体のマクロの事象の将来を語っているからだ。これは論理として致命的な欠落ある議論といわざるを得ない。大学教員がこのようなずさんな論理を展開してよいのだろうか?

 

また、現実に、日本の民間部門は少しも大丈夫だと安心できる状況にはない。現在の日本経済が直面している生産性の低さという、数字に裏付けられた現実を著者はどう考えているのだろうか。日本の生産性は他の先進諸国に比べて著しく低く低迷しており、特に、本書で扱っている製造業よりもサービス業の生産性が低い(先進国ではGDPの中でサービス業の比重が高まるのが通常であり、日本もその例外ではない)。「生産性が低い」ということは、経済成長率が低くなる、ということである。サービス業の比重が高まらざるをえない今、生産性の低い現状が問題でない訳はない。日本として深刻に考える時期にあるのだ。そうした時に、「製造業があるから日本の将来は大丈夫だ」という言説を聞かされてもまったくのピントはずれの議論にしか聞こえないだろう。著者のいう「すごい製造業」は日本に存在しているが、それは以前から存在しているのだが、それは問題の解決になっていないのである。劣った製造業の現場、サービス業の現場等がむしろ沢山あるはずで、そこには目をつむって、見栄えのよい所だけを語って日本全体について楽観できるという議論を振りまくというのは、明らかに偏っているし、読者に重要な問題を覆い隠すものではないか。

 

要するに、こうした状況にあって、本書のような根拠のない楽観論を振りまくのは、拠り所を求めたい人々を安心するだけにとどまり、むしろ問題を隠す働きをしてしまう。その意味で、大いに警戒すべき議論なのだ。

 

以上から、本書の評価が低いのはやむを得ない。すぐれた現場を紹介することに意味はないわけではないであろうが、本書はそこで終わるべきであった。また、そこにとどまらず、問題の多い現場、サービス業、そうした分野について目をつむらずに書くべきであった。しかし、著者は「日本は大丈夫」という、まったく安易で偏った楽観論を振りまいている。

 

著者は、大学教員である。大学教員たる者が、自分の「信念」ばかりをを語り、論理性の欠いた根拠のない日本楽観論を振りまくのはいかがなものか。また、本書に好意的なレビューをする人々は、安逸な気分に浸りたい人たちなのか。私は日本没落論を支持する者ではないが、日本楽観論も支持しない。著者やレビューワには猛省を求めたい気分である。

 

##Amazonの書評のほうも修正しました。

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書評「漢字を楽しむ」(阿辻哲次著、講談社現代新書)

漢字を楽しむ (講談社現代新書 1928) 漢字を楽しむ (講談社現代新書 1928)

著者:阿辻 哲次
販売元:講談社
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書店に行って新書コーナにいったところ、たまたま平積みになっていたので、手にとって眺めたところ面白そうだったので、思わず買ってしまった本である。漢字の読み、書き、そして生成に関し、素朴ではあるが言われてみれば不思議な点について、漢字の専門家である著者が例を挙げながら説明している本である。

 

「漢字を読む」「漢字を書く」「漢字を作る」の三章構成であるが、一番おもしろかったのが第二章の「漢字を書く」。学校のテストで、別の漢字と間違えられる可能性がない場合でさえ、漢字の「ハネ」や「ハライ」が間違っている、あるいは筆順が違うなどの理由で誤答とされたり減点されたりする例があるし、この点で特に厳格な先生もいるようだ。しかし、著者はいう、「その先生は教育に「きびしい」のではなく、漢字に関する正確な知識がなく、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導できなから、単に教科書や辞書などに印刷されているとおりでないと、安心して「正解」とできないだけののことなのです」と。そして、ハネるハネないについて、「環」の下のところ(ハネると誤りにする先生がいる)を例にとり、清の康煕帝が命じて策定させた字書でも、戦前の日本の活字の見本でもハネがあったこと、戦後ハネないようになったのは「当用漢字字体表」でたまたまハネがなくそれが印刷字体になってしまったからに過ぎず、印刷と手書きは違っても構わないこと(政府の作った「常用漢字表」も容認)を明らかにしている。筆順も、慣習に過ぎず、文部省が昭和33年に一つの手引き(これと異なる筆順もOKと明記)として策定したものが、同様の著述がないために、いつの間にか絶対化されてしまったものにすぎないことを明らかにしている。要するに、漢字のハネや書順にうるさい教師たちは、自信が持てない自分の拠り所を「権威」に求めたに過ぎないわけだ。

 

このほか、漢字の中には、歴史的にみても、権力者のこじつけや気まぐれで作られたものがあること等、いろいろな「雑学」が楽しめる。この本で感じるのは、漢字というものは、一つのルールに従わなければならない堅苦しいものではなく、もっと柔軟に使ってよいものである、ということだ。タイトルが示すとおり、気楽に読める本となっているので、気が向いた時にパラパラと読んでみてもよいだろう。

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書評「iPhoneが日本に上陸する日」(山根康宏著、技術評論社)

iPhoneが日本に上陸する日 iPhoneが日本に上陸する日

著者:山根 康宏
販売元:技術評論社
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本書は、iPhoneという魅力ある携帯端末の登場を受け、その魅力を述べるとともに、これを日本で利用するに当たって多くの障壁があることを示すことを通じて、垂直統合型の日本の携帯電話ビジネスの問題点を上手くあぶりだしている。

 

iPhoneについて書かれた書物は既に何冊か存在する(例えば林信行「iPhoneショック」)が、本書がこれらに比べて良いと思われるのは、通信事業者やメーカのサイドから企業経営や戦略等を論じるというよりも、ユーザの視点をメインに、iphoneの可能性とオープン化の利便性、日本の携帯電話ビジネスモデルの弱点を明らかにしていることである。すなわち、日本企業の採用してきた垂直統合型モデルに一定の理解を示しつつも、時代の流れは日本以外で採用されているオープン化(iPhoneはその下での利用を基本としている)であり、ユーザの立場からもオープン戦略が求められる、としている(なお、最終節の表題が「日本的垂直統合モデルの長所を生かせ」となっているが、中身を読むと垂直統合モデルからオープン化への方向を求める内容になっている)。顧客が求める商品・サービスの提供が重要となっている現在、本書のようにユーザからの視点から論ずることは、iPhone、そして携帯電話ビジネスを語るに当たりより相応しいアプローチであろう。

 

日本でのiPhoneの可能性については、iPhone登場時に通信方式の相違だけを問題として指摘する浅薄な記事も見られたが、本書はそれにとどまらずに様々な障壁を挙げている。その他、日本では海外と異なりメーカーよりも通信事業者が強い、垂直統合モデルをとっている、日本メーカーは海外で弱い等、業界に多少でも詳しい人によく知られた内容も多く書かれており、内容的に物足りない部分がないとは言えないが、そうでない一般ユーザにも比較的分かりやすく携帯電話ビジネスのモデルが説明がされており、読んでおいてよい本に属すると思う。

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書評「訳せそうで訳せない日本語:きちんと伝わる英語表現」(小松達也著、ソフトバンク新書)

訳せそうで訳せない日本語 きちんと伝わる英語表現 (ソフトバンク新書 62) 訳せそうで訳せない日本語 きちんと伝わる英語表現 (ソフトバンク新書 62)

著者:小松 達也
販売元:ソフトバンククリエイティブ
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英語を使う時に手元に必ず置いておきたい良書

 

私は日本人なので、英語を使う(書く、話す、和文を英訳する等)にも、どうしても日本語の感覚で考えているところがある。そうした時に、この日本語をどのような英語(単語、熟語)で表現したらよいのか、迷うことが多い。たとえば、「まとめる」、「本格的な」、「しかたがない」、「がんばる」・・・。特定の文脈でこれらにピタッとはまる英語というのはなかなかすぐには思いつかないものである。

 

そうした時に本書が役に立つ。本書は、50年間通訳業を続けてきた著者が、長年の経験の中で、こうした英語に訳すのに苦労した日本語(80語弱)の例を集めてまとめたものである。これらの日本語ひとつひとつについて、それに相当するいくつかの異なった英語の単語・熟語がすべてそれぞれの実際の用例付きで載っている。たとえば、「まとめる」であれば、to agree on, to compile, to complete, to draft, to finalize, to organize, to prepare, to put together, to work outが載っているが、これはまとめる対象によって使うべき動詞が異なってくるのである。どの場合に何を使うべきかについても書かれている。

 

仕事で英語を使うことがあるので、こうした本が前から欲しいと思っていた。もちろん和英辞典を使う手もあるが、かならずしもピタッとくる用例が載っているとは限らないし、どのような場合にどの語を使えばよいかも十分に書いていない。そうした意味で本書はすぐれものである。ここに載っている日本語だけで足りるというわけではないかもしれないが、英語を使う時には手元に置いておきたい本である(もちろん本書の内容をすべて覚えられればそれが最善だが・・・)。80語弱以外にコラム的に載っている「ワンポイント通訳」もおすすめである。

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書評『IT産業崩壊の危機』(田中克己著)

IT産業崩壊の危機―模索する再生への道のり IT産業崩壊の危機―模索する再生への道のり

著者:田中 克己
販売元:日経BP社
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日経コンピュータ誌等のコラムを再編集したものである。IT産業(ITベンダー会社やITサービス会社、ソフト開発会社等)の近年の「苦境」が説明されている。大手ベンター(NEC、富士通、日立等)をはじめとする業績の低迷、輸入製品・技術への依存、ソフトの不具合、過酷な労働実態、技術レベルの低下・・・、さらに政府からも見捨てられつつある・・・。

 

こうしたIT産業の現状を一般の読者に知らしめるという意味では本書に意義はある。 ただし、肯定的な評価ができるのはここまである。全体にわたる印象として、日本のIT業界についての目に見える現象をひととおり集めているが、既存の文章を集めたもので読みにくい上に、業界先にありきの発想で表面的な議論に終始しているだけで、問題の原因に対する十分な洞察が全く見られず、読んでいて強い苛立ちを覚えた。IT業界はこうした発想でこれまで様々に取り組んできたものの、結局のところ「苦境」を克服できてないではないか。

 

本書を読んでも分かるように、日本のIT企業は、資金、労働、技術といった資源を投入している割に利益が上げられていない。そして、価格競争の中で無理に利益を上げようとして、SEなどに無理な労働をさせている、そのために品質が確保できないし、人材も集まらない。余裕もないから、研究開発等への投資も十分に行われない。海外企業に比べても劣る。日本のIT産業の姿はそのように見える。

 

これは、端的にいえば、日本のIT企業は、海外企業に比べても、その事業に優位性がない上、市場に居座ろうとして様々な問題を惹起している、ということである(こうした状況になった大きなマクロ経済的背景としては日本経済を長年覆っているデフレの影響もあると思うが、それはここでは横に置いておく)。こうした利益が上がらない状況であれば、経営者(あるいは株主)としては、撤退や事業の売却等を考えるべきではないのだろうか。コスト面でも品質面でも優位にある外国企業に任せるべきではないのではないだろうか。そうすることが、過酷な労働を強いられるエンジニアにとっても、そして日本経済にとっても良いことなのではないのだろうか。少なくとも、そのような状況で明確な見通しが持てない現在、日本の人材、資金等をこれまで通り日本のIT産業に投入すべきというのは、企業にとっても日本経済にとっても良いことか、疑問に思って然るべき。

 

しかし、今のところ撤退等の戦略をとる日本のIT企業はそれほど表にあらわれてきていないように見える。そのような選択がなされてない原因としては、資本市場のガバナンスが効いていない、労働者の保護が遅れている、などが考えられる。それに加えて、確かな見通しがないにもかかわらず、(成長産業だ、基幹産業だとのイメージもあるのだろう)IT事業をなんとか成長させなければならない、という日本の業界の発想に凝り固まっていることも一因としてあるのではないか、と著者の文章を読んで感じるのである。

 

本書での著者の議論が致命的なのは、「日本のIT産業はなんとか発展させなればならない」という業界中心の発想からまったく抜け出ていないことだ。それが端的に表れているのが、『「国産ITを育てる施策が必要か、不要か」と単純に質問されれば、誰もが必要と答えるだろう』(p37)という文章である。しかし、そんなことはまったくない。筆者は不要派である。そもそも、なぜIT産業を海外企業に任せてはいけないのだろうか?なぜ輸入技術に頼ってはいけないのだろうか?これまでも国内IT産業の発展のため所管省庁が行ってきた施策により事態がどれだけ改善したのか?ユーザとしては国産でなくても全く困らないのではないか?およそ経済合理的な限り、そうしてはならない理由は見当たらないのではないか?

 

にもかかわらず、国産ITに固執するのは、経営者として合理的な思考の結論ではない。むしろ、かつての成功者としての面子へのこだわり、あるいは現在の職を失うことへの強い恐怖心によるのではないのかと想像される。環境が変化し、自分たちがこれまで食べてきた体制がそれに適応できなくなったにも関わらず、体制をなんとか維持しようとしてもがく姿に見える。だが、それは、例えば、農産物自由化をおそれる日本の農業団体の姿であり、1980年代に日本車に押されていたアメリカの自動車メーカーの姿と同じではないか、と思わないのだろうか(ちなみに日本の農業も、米国の自動車メーカはますます低迷の度を増してきたのは言うまでもない)。 どうやらIT企業も、これらと同じような発想で語られるようになったようだ。

 

このように、国産にこだわり、不採算なIT事業からの撤退をオプションとして考えていない姿勢は、マイナスの効果しか生み出さないのではないか。撤退しなければ、他の産業で有効に活用できる資源を、採算のとれない事業に投入する、あるいは、エンジニアに過酷な労働を強いる、日本経済全体からみれば、人材や資金、技術を有効に使えない、ということにしかならないのではないか。

 

本書の提言に目新しさはなく、これで明日が切り開けるとは思えない。著者と同じような業界中心の発想から、IT産業の発展のために、これまで様々な施策が業界を所管する省庁によって講じられてきた。採算性の悪い産業に対して、成功するかどうか分からない新事業等に公的な支援が与えられてきた、しかし、これまでの経験からいえば、これらの政策によって、事態がいったいこれまでどれだけ自体が改善しただろうか。これまで問題の解決になってこなかった現実を著者はどう見るのだろうか。

 

利益の上がる事業をやらないとだめだというのは当然である。あまりに当然過ぎてあえて言う必要性がないことだ。問題はどの事業が利益があがるかということであるが、それが予めわかれば苦労はしない。少なくとも結果を見れば日本のIT企業の経営者たちの決断は正しいものとはいいがたいが、それでもそこは経営者の才覚に任せる話であって、政府の施策で対応するのは筋違いである。本書には、そうした点への配慮は見らず、安直に政府の施策を含めた弥繕策を述べているだけである。

 

結局、IT企業に対しては、付加価値を上げる、付加価値があげられない事業は行わない、ということに尽きる。どの事業に投資するかは各企業の判断である。適切な判断ができない企業には撤退してもらう、ということである。著者は「IT産業は見捨てられた」と嘆いている。「見捨てる」「見捨てない」という特定の価値観に偏った言葉で表現するのは不適切極まりないが、IT産業を突き放す態度こそ日本経済全体にとっても最も適切である。

 

いま求められているのは、著者のように「一国の業界の在り方をどうするか」と内向きの発想で物事を考えることではないはずだ。重要なのは、本書の論ずるように国産ITを育成して業界の発展を図ることではなく、個々の企業が自らの判断で経済合理性に従い柔軟に対応することではないかと思うのだが、どうだろうか。

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書評:「昭和天皇」(原武史著、岩波新書)

昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111) 昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111)

著者:原 武史
販売元:岩波書店
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本書は、「お濠の内側」で行われる宮中祭祀の観点を中心に、昭和天皇像を描き出そうとするものである。

 

そこに主に示されるのは、一時期のブレはあるとはいえ、戦前・戦中・戦後を通じて、(著者によれば「創られた伝統」にすぎない)宮中祭祀に重きを置き、皇祖神に祈ってきた昭和天皇の姿である。それは、単に、真面目さとして片づけられるものではなく、東宮御学問所における杉浦重剛らによる教育の影響とともに、(神がかり的で「神罰」を恐れるで)実母である皇太后(貞明皇后)との間の(確執ともいえる)関係にとらわれたことの影響があったことが示される。そして、太平洋戦争中は勝利を神に祈り、終結においても「三種の神器」を守ることを第一とし、戦後も、先の戦争に関して平和の神である伊勢神宮に戦勝を祈願したことの過ちについては謝罪した、そのことが戦後も宮中祭祀にこだわった理由の一つであった、と昭和天皇の行動を皇祖神への姿勢との関わりから説明している。

 

私は政治・外交(=お濠の外側)の視点ばかりから昭和史の本を読んできたが、そこに示される立憲君主としての昭和天皇とは違った姿が示されていて、一気に読んだ。専門家等にとっては物足りない部分があるかもしれないが、一般の読者にとって大変興味深く読める本であると思う。本書は、昭和天皇の行動すべてを宮中祭祀で説明できるといっているわけではなく、昭和天皇の一面に光を当てるものにすぎない。決して馬鹿馬鹿しい内容ではなく、昭和天皇の発言などの史料に基づいたものである。もちろん、本書の内容は著者個人の解釈を免れるものではないが、そもそも利用できる史料が限られている以上、やむを得ないであろう。

 

ただ、若干の違和感も残る。著者は、昭和天皇の、戦中だけでなく戦後の発言について、神が第一で国民は二の次であった旨のフレーズを何度か繰り返し、最後に、日本国憲法の理念と矛盾する宮中祭祀を続ける今上天皇に触れ、「昭和は終わっていない」と言って本書を終えている。しかし、本書から受ける昭和天皇の姿は、置かれた環境に大きく影響された一人の個人の姿である。天皇が代わり平成になり20年が過ぎる今、著者の言うように「昭和は終わっていない」という問いはどこまで有効なのだろうか。

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書評:「こんなに使える経済学-肥満から出世まで」(大竹文雄編)

こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書 701) こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書 701)

販売元:筑摩書房
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「経済学の本質的な面白さは、社会の仕組みを考えることで、どうしたら人々が豊かになるかを考えることだ」(p17)

      

「そのような仕組みを考える上で一番有効な方法が経済学的な思考方法なのである」(p12)。

   

「経済学を学ぶときに最も重要なことは、人は幸福になろうというインセンティブをもって行動していることを理解することである。そのような人々のインセンティブを無視して制度や組織を作ると失敗するということである。命令したり、規制さえすれば必ずそのとおりに人々が行動するという前提で制度を作ると、うまくいかない。最悪の場合は、規制の意図とはまったく逆のことが発生してしまう」(p11)

  経済学の本質は、個々人のインセンティブにより経済現象、社会現象をとらえるようとすることにある。しかし、今の日本では、残念ながら経済学は役に立たないと思いこんでいる人々は相変わらず少なからずいるし、実際に経済学の知見を使って制度設計が行われる例もまだ少ない。 

これに対して、本書は、狭い意味での経済問題にとどまらず広く身近な社会経済に関する27の事例について、個人のインセンティブ(プラス情報の非対称性やいわゆる行動経済学の成果等)を使って説明できることを示すことによって、経済学が有用であるを示した好著である。近年、同じような趣旨の本もいくつか出版されているので、その点で本書が画期的であるとは言えないが、現在の日本において身近に実感できる経済社会現象を多数取り上げており、経済学の有用性に理解が不足していた人々ばかりでなく、経済学に通じた読者にも馴染みやすく、かつ十分楽しめるものになっている。

 

内容については、別のところで発表済のものも多く、既に経済学に通じている人々にとって目新しいものばかりではないが、それでも刺激的なものが多い。人によって興味が起きるパートは異なるだろうが、個人的には、例えば、なぜ一部の人だけが肥満となるか、なぜある人たちは喫煙等に中毒になるのかといった健康問題のほか、教育の義務化が長期的な人口増加から人口減少への転換(少子化)の背景にあること、人々の生まれ月は制度に適用しようとする親たちのインセンティブによって影響されていること、日米を比較すると、日本人の方が公共財の提供において「いじわる」であり、相続においても「利己的」であることなど、意表を突いた議論が楽しめる。

 

納得するには説明が不十分と思える箇所も少なからずあった(元は週刊エコノミスト誌の連載であり各事例6ページしか紙幅がない)ので、個人的にはもう少し詳しい内容を知るための参考URLや文献リスト等も欲しいところであったが、本書の目的は「経済学への招待」であり、それは無いものねだりなのであろう。

 

一つだけ難点をいうと、各執筆者がそれぞれのテーマについて書いた短い文章の間を関連つけずに掲載しているため、内容的に連続感が欠けているため、本を一気に読む際に少々読み辛くなっていることであるた。週刊誌の連載を集めたものであり、各執筆者が別々のテーマに取り組んでいるので、やむを得ないとの事情は理解できるが、一般の人に経済学に興味をもってもらうための新書としてまとめるのであれば、材料は良いのだから、もう少し各パートの連続性をもたせて読みやすく工夫があっても良かったのではないかと思う。本書の読者は、まず自分の興味のあるテーマのところを拾い読みしてもよいだろう。

 

いずれにせよ、編者の大竹先生が本書で繰り返しているとおり、政策立案や制度設計において人々のインセンティブを無視してはいけないという点は重要である。今の日本ではこれを無視した制度設計が依然として多い。その現状に対して、経済学から一石を投じ、より良い社会作りが行われるように人々を啓蒙すること、これが本書の隠れた狙いなのだと勝手ながら想像している。

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書評:「すごい製造業」(中沢孝夫著、朝日新書)

すごい製造業 日本型競争力は不滅 (朝日新書 92) すごい製造業 日本型競争力は不滅 (朝日新書 92)

著者:中沢 孝夫
販売元:朝日新聞社
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[追記] 本書については、その後改めて書評を書きました(2008/3/7) → こちら

最近、本屋で何冊か本を買った時に目にとまったので衝動買いした本。だが、読み進めるなり、頭を抱えてしまった。 

筆者は、本書において、日本の製造業(特に中小企業)の現場の具体的な取り組み事例を多く取り上げ、日本のものづくりにおいて「優れた現場」が無数にあることを示し、それが増える限り我が国は心配ない、と主張している。 

個別事例を取り上げて論ずるのはよい。実際、日本の製造業のにおいて優れた現場があることに異論はない。しかし、そういった個別事象をいくつか見ただけで、そこからいきなり日本の製造業一般、さらには日本経済全般についての語ろうとしている筆者の書き方に対しては、牽強付会と言わざるを得ないし、少なくとも読者に対して説得力がないだろう。大体、日本の製造業の強さはこれまでも多くの人々によって論じられているが、にもかかわらず「失われた10年」は起き、日本経済は低迷し続けているのである。 

全体として、個別事例が書かれているほかは、論拠が十分に示されておらず、著者の「信念」の語りばかりが目につく本であった。もっとも、製造業の中小企業で働いている、あるいは働こうとしている人たちにとっては、大いに励みになる本かもしれないが。

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書評:「NTTの自縛」(宗像誠之著)

                              
NTTの自縛 知られざるNGN構想の裏側NTTの自縛 知られざるNGN構想の裏側         

著者:宗像 誠之          
販売元:日経BP社            
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昨日、書店の店頭でたまたま見つけて買ったのだが、かつて電話をオペレートする公社だったNTTという組織の宿痾を明らかにした非常に興味深い本である。本書の要旨は次のとおりである。 

 
       
  • 昨年5月にNTT東日本のフレッツ網で起こった大規模なネットワーク障害が起こった。この障害について、同社は「ルーターのソフトウェアのバグ」が原因であるとするが、本質的な問題は別のところある。それは、NTTの技術陣の組織体系が、IPの時代である現在になっても、依然として電電公社時代に培われた電話の時代の価値観(電話的価値観)によって縛られていることである。つまり、今もこの電話的価値観を行動規範としている「施設屋」と呼ばれるグループ -- 電電公社時代から設備投資のための巨額の予算と技術系の人事権を握っている、純粋の意味で技術者といえない人脈に連なる人々 -- がNTTの技術陣を公社時代から変わらず牛耳っており、収益を生み出すはずの事業開発、サービス開発に携わる技術者は傍流に追いやられている。IP技術を理解しない「設備屋」が占める幹部陣は、NGN構築ばかりに目がいって、フレッツ網の改変に必要な予算をつけなかった、このことが昨年の障害が起きたことの原因の一つになっているのである。    
  •    
  • このような設備屋が技術陣の実権を握る組織体制が、(IP技術である!)NGNを主導しているが、ここにも大きな問題がある。NGNは世界の通信事業者が構築しようとしているが、持ち株会社主導でをあげて大々的に取り組むNTTのNGNは、和田社長(当時)が当初画期的な新しいネットワークだと強調してきたものの、商用サービスを前にふたを開けてみると、現行フレッツ網の後継にすぎず、中身はからっぽに近いものであることが明らかになった。高機能なインフラを作れば使われる、という電話時代からの感覚がNTTに残り、ユーザの利便性を無視しており、自社の都合ばかりが色濃く反映されているのである。    
  •    
  • そうしたNTTが守ろうとしているものは、株主でもユーザでもなく、自分たちの組織体制であり、これは、電話が独占であった電電公社時代から連綿と受け継がれてきたものだ。NTTがしばしば打ち上げる大きなビジョンや構想も、組織に一体感を出すというNTTの都合によるものであり、実を結んだものは少ない。    
  •    
  • NGNもそのひとつであって、NTTにとって交換機に置き換わる新しいIPネットワークや光ファイバが必要ということのほか、グループをまとめるために利用する意図があった、と社内で公然とささやかれている。NGNはこのような自社の都合で考えた構想であるため、中身がないまま進められた。結局、現行の設計には電話が重視されすぎている等の問題があり、このまま予定通りのスケジュールでNGNをスタートさせるとトラブルが起こる可能性が高い、という声がNTT内部(特に現場)で多く聞かれる、という。しかし、持ち株会社は、「サービスを公約通り開始することが大事」と内輪の都合で進めており、サービスを遅らせる気配はない。    
  •    
  • 経営的にもNTTには厳しさが増している現在、電話的価値観・内向きの姿勢からの脱却し、自ら改革しようとすることが重要ではないか。
   

本書に書かれている事柄は、NTTという会社とつきあい、あるいはNTTをウォッチしてきた人々にはよく理解できるものではないだろうか。NTTの独占的体質がしばしば問題となるが、現行体制維持を優先する官僚的行動原理にこそ、その源泉があるのではないかと思う。そうしたNTT内部の姿を中心に描いており、非常に面白かった。

   

NTTを扱った近年の本に町田徹『巨大独占』があるが、町田本が市場や政府との関係など外部との関わりを中心に書かれていたのに比べ、本書は、NTT内部の組織の論理、そしてそれが生み出す問題を明らかにしており、より構造的な問題に触れている。こういった組織内の問題ははっきりと見えるものではないため、著者の解釈に委ねられている記述は多くならざるをえないし、また書けなかった部分も多いと思うが、それでもNTTは特殊法人であり人々の生活や企業活動等に大きな影響を与えている企業だけに、この問題を広く一般の読者に明らかにした点は大きな意義がある。

   

しかし、このような相変わらずの体制が民営化後20年以上経た今でも継続しているというのは、それだけNTTという会社の経営が何はともあれ安泰であったことの証拠である。市場では競争が進み、ライバルが力をつけたのは間違いないものの、それでも市場でのNTTのプレゼンスは今でも圧倒的である。それが変わらない現状で、本書が言う自己変革はなかなか期待できないと考えざるを得ない。まさに改革が促されるよう一石を投ずるため、本書は書かれたのではないか、とも思われる。いずれにせよ、2010年の組織見直しを2年後に控えた今、その論議を進めるのにふさわしい書であることは間違いないと思う。

   

なお、本書は、『知られざる通信戦争』等、一連の日経コミュニケーション編の通信市場のドキュメント本に続くものと思われるが、これまでのものとは異なり、宗像氏の単著となっている(日経コミュニケーションは監修という立場)。

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書評:雨宮昭一「占領と改革」(岩波新書シリーズ日本近現代史⑦)

占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7) 占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)

著者:雨宮 昭一
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

岩波新書のシリーズ日本近現代史も本書で7冊目を迎え、戦後に突入した。同シリーズはどの本も勉強になる。 

本書の内容は、おおむね以下のとおりである。

 
       
  • 第二次世界大戦における日本の敗戦後の占領と改革の時代について、これまでは、「被占領国の下層の人々までが支持する成功した占領である」、「自由と平等と脱貧困の達成であった」、あるいは「占領改革で日本のすべてが変わった。日本の戦前・戦時に採るべきものは何もない。日本の戦時体制は連合国とは何の共通性もない。日本の主要な政党やリーダーはまったく古くて何も変えようとしなかった」というように語られたり、認識されてきた。本書は、本当にこれでよいのか、と問いかけ、これと別の語り方を提示するものである。
  •    
  • 上で述べたような、占領政策が日本のすべてを変えた等のこれまでの語り方(著者はこれを「無条件降伏モデルのサクセスストーリーとしての語り方」と呼ぶ。J・ダワーの『敗北を抱きしめて』はその例)は、GHQなどの外から与えられたイメージによったり、経験と願望を投影する形で行われてきたものであり、社会全体の構造の変化に伴い、今日、部分的、主観的、恣意的に感じられるようになっている。戦後を持続した最も有力な力は国際体制レベルにおける戦勝国のシステムであるとの視点を持つなど、国際関係、政治、経済、法などのすべての領域のシステムが相互作用するものとみて戦後を見ていく必要がある。
  •    
  • 上記のサクセスストーリーとしての語り方を相対化するため、(ア)占領によって「改革」されたといわれるものについて、戦後、戦時、敗戦直後にその契機があったのか、なかったのか、(イ)あったとすれば、「総力戦体制下での敗戦による変革」と「占領による変革」と明確に区別することによって、占領がなくても民主化を推進し得たか否かを検討する。
  •    
  • まず、(1)社会に関しては、日本ではすでに総力戦体制(国家総動員体制)によって社会が変革されていたこと、、(2)政治に関しては、戦時中に、(a)国防国家派,(b) 社会国民主義派、(c)自由主義派、(d)反動派の4つの政治勢力があり、うち(a)(b)が総力戦体制の推進派、(c)(d)が反対派であったが、東条内閣総辞職において後者が勝利し、これによってはじめて敗戦(終戦)が可能となったこと、の2点は戦後の原点といえる(第1章)
  •    
  • GHQの下で行われた改革のうち、婦人解放、労働組合結成奨励、農地改革等)については、総力戦体制の中で下地が作られてきており、占領がなくても実現しえただろう。また、教育改革については、日本でも臨戦期以前は自由主義的に行われておりその下地があったし、財閥解体については、軍国主義の温床の解体ということではなく、アメリカの独禁法の考え方を日本に適用したものであるといえる(第2章)。
  •    
  • また、新憲法も、押しつけであることは否めない事実であり、占領という厳然たる戦争継続状態の中で敗戦国たる日本が受け入れなければならなかった形態であったことは認めなければならないが、主要政党や日本政府からの草案が(GHQのいったように)旧態依然で戦前の憲法と変わっていないということはなく、最も保守的な政党の草案ですら、明治憲法とは圧倒的に違う内容であり、日本人による自己変革は可能であった(第3章)。
  •    
  • さらに、社会的あるいは政治的な指導者の戦後へ向けての動きも、昭和15年8月15日の敗戦や同年10月の人権指令を受けて始まったというのは一種の思い込みであって、実際にはそれ以前からすでに社会運動の指導者や政党は動き出していた(第4章)。
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  • 片山内閣・芦田内閣で政権についた「中道」(民主党、社会党、国民協同党など)の政策は、協同主義で、総力戦体制形成時の社会国民主義と共通しており、ニューディーラーたちが支配するGHQ民政局もこれを支持していた。他方、その次の第二次吉田内閣(自由党)は、自由主義者である。このような「自由主義と協同主義との対抗は、アメリカ国内、GHQ内の二つの傾向ともからむが、冷戦によって前者の勝利となる。これは反東条連合勝利の再版であった。」(p173)(第5章)。
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  • その後、共産主義を封じ込めるという米国の冷戦戦略に規定される国際体制の影響下で、日米安保体制が形成され、これを認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって、「保守」対「革新」という形での五十五年体制が形成され、他方、経済においては民需中心の経済の展開される中ほとんどの政党が生産の近代化・効率化を主張していく。そこでは、中道内閣で見られたような福祉国家につながる協同主義等が封印されていき、「保守」たる自民党の中に自由主義と協同主義、政治的潮流でいえば、上で述べた(a)(b)(c)(d)のすべてが含まれていった。「冷戦が終わる時、保守も革新も分解を始めるだろう。」(p188) (第6章)。
 

歴史家ではない私にとって、本書は新鮮な見方を提示しているもののように思われる。それは何より、米国による占領よりも戦前と戦後の連続性を重視して、戦後直後の諸改革や政党政治をとらえていることである。

 

もちろん、野口悠紀夫の1940年体制論の見られるように、戦後の体制には総力戦体制に由来するものが多く残ってきた、という指摘はこれまでもあったし、また、政治勢力としても、岸信介のような革新官僚が「保守」政治家として政権を担ってきたことは周知の事実である。しかし、歴史を見るとき、どうしても1945年8月15日の前後で大きな断絶があって、戦後日本の体制の構築には占領軍による改革の影響が大きいものと思いがちである。

 

しかし、本書は、戦中の政治勢力の構図と彼らのその後の動向、そして彼らの主張を追うことによって、占領期の改革が、戦前・戦中から戦後への連続性の中に位置づけられることを明らかにしている。つまり、戦前・戦中から存在した「総力戦体制を支えた国防国家主義+社会国民主義」と「自由主義+反動派」の対立の構図は、戦後も引き続き政治の場で「協同主義」対「自由主義」の形で継続した。そして、前者の考え方は、アメリカのニューディーラー(GHQ民政局を主導)の考え方と近いものであって、占領期にGHQの下で行われたとされる多くの改革も、総力戦体制の流れの中でいずれ実現しえたものであったことが示されるのである。(なお、世で多く信じられている、『「戦前の専制主義・封建性」対「戦後の自由主義」』、「占領と改革による日本の成功」という思い込みは連合国の作り上げた言語空間であったと本書は主張する)。

 

この「協同主義」対「自由主義」の構図は、西欧では、「社会民主主義」政党と「自由主義」政党の対立の形で議会制において顕在化しているものであるが、日本では、これが、米国による国際秩序等の影響もあって、55年体制、すなわち「保守」(改憲・親米・安保体制支持)対「革新」(護憲・反米・安保体制反対)の構図に変質した。その結果、自由主義対協同主義の対立軸が顕在化せず、後者が保守長期政権に内包された。このことは、福祉国家あるいは大きな政府が保守政権の下で政策として実現されていったことの上手い説明となっている。

 

このように、本書は、これまで私にはよくわかりにくかった日本の戦後直後の占領期の政治や諸改革を、それ以前の戦前・戦中、そしてそれ以後の55年体制と連続するものとしてとらえており、昭和全体を通じた日本の歴史の理解に非常に役立つものであると思う。 (むろん、本書の語り方自体、雨宮氏の視点による相対的なものであることは前提として認識しなければならないが)。

 

もちろん、本書の意義はそれだけでないだろう。本書で著者が示すとおり、米国は、現在においても、イラクに見られるように、他国の占領と改革を行っているが、それを正当化する実例として、日本でのサクセスストーリーがあるのは間違いない。もちろん、イラクではこれがうまくいっていないことは万人の知るところであって、日本で成功したことについても、日本では占領前にもデモクラシーがあった等、条件がそろっていたことを指摘する米国人も多い。その意味で、しばしば米国で見られる、占領と改革によってその後占領された国は成功するんだという正当化のロジックは無条件では成り立たないことを、本書は示しているといえる。

 

また、日本自身に関しても、かつて「自由主義」と対抗するものとして「協同主義」があったことを本書は「発掘」した。冷戦が終結した後の現在日本での政治空間においても、「自由主義」の対立軸として「協同主義」の可能性があることを、本書は指し示しているのではないだろうか。

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書評:加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」岩波新書

 本書は、岩波新書「シリーズ日本近現代史全十巻」の5冊目に当たる。昨日は盧溝橋事件発生70周年だったそうだが、これにあわせるかのように、先月刊行された。

 個人的には近現代史に興味を持っているものの専門家でもないし歴史に詳しい人間でもないが、本書は理解に大変役に立った。とはいえ、本書の内容は盛り沢山であり、その内容を整理し評価するとなると、なかなかに難しい本である。いや、いまだに評者の頭の中では十分に整理されているとはいえないのだが、とりあえず書いてみよう。

 本書のキーワードの一つは、「復仇」(相手国が条約に違反する行為をなした場合などに、その行為を中止させるため、相手国の貨物・船舶の抑留、領土の一部占領など、強力行使に訴えることをいい、法律上違法とはされない)」であろう。著者は、日中戦争を日本と中国の双方にとっての復仇(あるいは報償)であると位置づけ、日本では、中国は国際条約を遵守しない国という主張が勢力を得ていたことのべた上で、本書において日本の為政者や国民が、いかなる経緯によって、心から復仇を主張するようになったのかを明らかにしたいと冒頭で述べている。この時代については、周知のとおり、軍の暴走、一元的外交政策の欠如等の問題が戦争の泥沼化を導いた点が指摘されるが、本書はそういった論点には踏み込まずに、人々がどのような考え方が満州事変や日中戦争へとつながる行動に生んでいったかを述べており、この時代の歴史への理解を大いに深めるのに役立つものであった。例えば、本書は、満蒙特殊権益に関する国際法上の正当性についての日本での考え方がどのように満州事変や日中戦争に連なったのか等に焦点を当てているが、日本政府の関係者の多く(陸軍を含め)が、一定の限界があることを多かれ少なかれ認識していたことは興味深く読めた(もっとも、日露戦争の報償として権益を位置づける勢力が強まっていくのであるが)。また、満州事変から日中戦争にいたる経緯を見ても、(これは専門家や歴史に詳しい方々にとっては周知のことなのだろうが)、日本や中国の政府内でも様々な考え方があり、国際連盟脱退や日中間での戦争を支持していない人々も多くいたものの、米国、英国、ソ連等の対応を含めた国際情勢の変化とも絡み合い、結果としてそのような事態に至った点もよく分かった。

 このように、復仇という点から描こうとする問題意識が本書を通じて基底に流れているとはいえるのだが、これは改めて全体を読み直してはじめてそのように理解できるだけで、一読するだけでは分かりづらかった。通史を描くという本シリーズの制約もあるのだろうが、本文では著者の問題意識があまり前面に出た書き方になっておらず、この問題意識に沿った形で史実の説明や解釈が十分に行われているようには読めなかった。例えば、前述の特殊権益を日露戦争の報償と見、中国の行為を国際法違反とする考え方が浸透してきたことは描かれているが、いったいなぜこのような勢力が増してきたのかという点については、何か背景があるはずだが、本書ではほとんど説明されておらず、評者にはよく分からなかった。

 各章での構成も問題意識に沿った形で必ずしも整理していないことも全体的なトーンを分かりにくくしている。例えば、第一章では、「満州事変の四つの特質」として①相手国の指導者の不在を衝いて起こされたこと、②本来は政治干与を禁止された軍人によって主導されたこと、③国際法との抵触を自覚しつつ、国際法違反であるとの非難を避けるように計画されたこと、④地域概念としての満蒙の意味する内容を絶えず膨張させていったことを挙げる。しかし、例えば、①は、復仇という観点とは無関係のものである。また、④については、これ自体興味深い内容だが、復仇との関連がよく分からなかった。

 評者は、「通史を描く」ことと「日本の為政者や国民による復仇の主張の点から史実を解釈する」ことの両方を、限られた紙幅の中で収めようとすることには無理があったのではないかと想像している。とはいえ、本書によって得られるものは大きい。時間と紙幅を十分にかけて改めてこのテーマについて描いた著者の作品を読みたいと思った。

 なお、pata氏は「個人的に不思議に思ったのは石原莞爾の存在をあまりにも大きく描きすぎているのではないか」と指摘しているが、私も同様の印象を持った。確かに、石原の存在は欠かすことができないが・・・。

 また、本シリーズは「家族や軍隊のあり方、植民地の動きにも目配りしながら、幕末から現在に至る日本の歩みをたどる新しい通史」であるが、著者が「あとがき」で記すように、ここでのポイントとなる「家族」「軍隊」「植民地」のうち、本書は「軍隊」については多く記しているものの、他の2つ、特に「家族」についてはほとんど触れることができていない。本の出来としては不十分といわれても仕方がないだろうが、bk1で表現自由氏がこの点をもって本書に低い評価を下していることについては、本書の内容を無視した評価であり、フェアとはいえないのではないだろうか。

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bk1での書評

実は、管理人は「烟霞(えんか)」の名で2003年にbk1に書評を何本か書いています。

吉崎達彦「アメリカの論理」
http://www.bk1.co.jp/product/2309826/review/201965
東浩紀・大澤真幸「自由を考える」
http://www.bk1.co.jp/product/2316114/review/204424
岩井克人「会社はこれからどうなるのか」
http://www.bk1.co.jp/product/2292140/review/206264

本サイトの名前も、この時に使った名前から来ています。「烟(えん)」は「煙(えん)」と同じで、けむりのこと。本ブログの名称は、単純にタイプしやすさから「煙霞余録」としましたが、上記の書評をしたときと名称を統一するため、本日より「烟霞余録」に変更することにします。

【追記】

上掲の書評は、4年前に書いた文章なので、今読むと恥ずかしい部分が多いですw。

一点付け加えたいのは、これらのうち、岩井本につけた★4つの評価は書いた当時から甘かったかなあと思っていたことです(少なくとも吉崎本、東/大澤本に★4つをつけるのであればもう少し低い評価であるべきでした)。他の評者を見ると、bk1でもamazonでも★5つをつけている人が多い等高評価が目立ちますが、分かりやすく、通俗的な理解をしている人には刺激を与える内容もあるので、そのような高い評価をつける人が多いのも頷けます。ある意味面白い本ではあるのは確かなのですが、当時から気になっていたのは、書かれているものが岩井先生の頭の中で作られた単純化されたモデルに留まっていて、現実の企業とそれを取り巻く環境を反映しているもののなのか、またそこで描かれた仮説が現実に当てはまるものなのかが書かれておらず、実証性に欠くことでした(この点は、書評でも触れてはあります)。そして、結論が、組織特殊的な人的資産を持つ法人実在説的な企業(そこでイメージするのはこれまでの日本型企業である)が肯定されたこともあり、なにやら日本型企業とそこに生きる人々に媚びた本であるという印象は拭えませんでした。ただし、当時席巻していた株主至上主義的な発想の緩衝材としては良いと思ったこともあり、★4つの評価を与えたのだろうと思います(他の評者もその点で本書に高い評価を与えたのかもしれません)。今、思うと、私自身も、若干の媚があったように思います。この点、田中・野口・若田部「エコノミスト・ミシュラン」やbewaadさんなどの本書に関する評価は的確ですね。

なお、私の書いた文章は、今読むと、紋切り型の理解や用語の使い方等から逃れられていません(恥w。今ならこのような文章は書きませんが、4年前は少なくとも今よりもかなり未熟だったということでしょう。

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