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2008年3月

終身雇用制への支持86.1%、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」よりも「平等社会」に支持

いくつかの新聞にも記事が出ていたが、独立行政法人労働政策研究・研修機構「第5回勤労生活に関する調査」結果から(3月24日公表)。

 

1 日本型雇用慣行の評価

「終身雇用(1つの企業に定年まで勤める日本的な終身雇用)」と「組織との一体感(会社や職場への一体感を持つこと)」を支持する(「良いことだと思う」と「どちらかといえば良いことだと思う」の合計)割合は、それぞれ2001 年(76.1%)、2004 年(77.8%)に一度低下した後に再び上昇に転じ、2007年には9割弱(それぞれ86.1%、84.3%)となった。

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2 望ましいキャリア形成

最も望ましい職業キャリアとしては、「一企業キャリア(「1つの企業に長く勤め、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「1 つの企業に長く勤め、ある仕事の専門家になるコース」)」が1999 年から一貫して高く、2007 年は約5割(49.0%)となっている。2004 年と比較すると6.1 ポイントの上昇となっている。次いで、「複数企業キャリア(「いくつかの企業を経験して、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「いくつかの企業を経験して、ある仕事の専門家になるコース」)」で2割強(24.6%)となっており、2004 年よりわずかに低下している。「独立自営キャリア(「最初は雇われて働き、後に独立して仕事をするコース」+「最初から独立して仕事をするコース」)」は、1999 年から下降傾向にあり2007 年には約1割(11.7%)となっている。

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(中略)

7 日本が目指すべき社会

これからの日本が目指すべき社会のあり方についてきいたところ、1999 年から2004 年までは「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が4割程度で、「貧富の差が少ない平等社会」を上回って推移していたが、2007 年には、これが逆転、「貧富の差が少ない平等社会」が大きく上昇(約13 ポイント上昇)した一方で、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が大きく(約11 ポイント)低下している。

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ソース:労働政策研究・研修機構の調査結果(PDF)

 

この結果は、日本に住む人々の大多数は、海部さんの『パラダイス鎖国』の中で今後の方向として思い描く世界とは別の方向を指向しており、その傾向が更に強まっていることを示すようにも見える。

終身雇用への郷愁が強くなっていることはその一つだが、特に私にとって印象的だったのは、最後に挙げた「日本が目指すべき社会」で、これまでトップを占めてきた「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」を抜いて、「貧富の差が少ない平等社会」が最も大きな支持を集めるようになったことである。社会主義的指向といえばよいのか、あるいは「パラダイス鎖国」の強化を望んでいるといえばよいのか。リスク回避、安定志向、悪く言えば、「後ろ向き」である。そうしたものは不安定な経済社会環境を反映していると考えてもよいだろう。

ここでの問題は、こうした人々が嗜好する社会のあり方が、本当に日本経済全体の豊かさを、つまり、一人一人が豊かに暮らせる社会を、本当にもたらし得るか、ということである。確かに、かつての高度成長期からバブル期までは、終身雇用(といっても実際には一部の企業で実現したにすぎないのだが)のもとで経済成長が果たされた。しかし、日本を取り巻く状況はその時期とは異なっており、かつて存在した雇用システムと経済成長の間の「好循環」はもはや保証されなくなっている。この調査結果は、そのことを多くの人々が十分に気づいておらず、過去への郷愁にとらわれていることを示しているようにも見える。

かつてのような大きな成長が望めない以上、穏やかなインフレのもとでの安定的な成長と、その中での生産性の向上を果たしていくことが必要であり、その点では、適切なマクロ政策と、(たとえば、イノベーションを起こりやすくするなど、経済全体としての)生産性の向上を引き出すような仕組みが必要である。

この調査で示されている人々の選好は、マクロ経済政策の失敗による経済不振・デフレ化、その他政策が導いた不安定な経済環境がボディーブロー的に利いている結果ではないのかと思う。人々がこうしたメンタリティを持ってしまうことによって、より柔軟な社会システムの実現が一層困難になっているおそれもある。その意味で、これまでの政策(無策を含めて)の罪は重いのだが、同様の意味で、今後も、政府・日銀がとっていく政策は重要である。

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(続)「Jシリコンバレー特区」構想について

 

 

先日の"「Jシリコンバレー特区」構想について"というエントリーに対して、    
>じゃ、どうしたらいいかな?    
とのコメントをいただいた。

 

この問いに対しては以下の3つの可能性を考えた。   
(1)上で指摘した問題点に対応するために具体的に何をすればよいのか、という方法論に関する質問    
(2)Jシリコンバレー特区の設置は前提としつつ、どう修正すればよいのか。    
(3)Jシリコンバレー特区の設置は前提とせず、何をすればよいのか。

 

その後にさらにいただいたコメントを読む限り、1を求められているようではないが、2なのか3なのかよく分からないので両方について書きたい。

 

何はともあれ、将来の日本を考えて興味深い構想を真面目に提案してくれるのは良いことである。この点で、分裂君の元のエントリーは評価している。ただ、構想を思いつく以上に、それを磨いていくことは重要なことである。問題点があれば建設的にそれを指摘することは、更に良い構想に育てていくために有益だと考える。先日のエントリーはそのような趣旨で書いたものである。「批判だけなら誰でもできる」というが、建設的な批判は必ずしも誰でもできるとは限らない。もちろん、先日のエントリーがどれほど建設的で有益だったといえるかどうか自信はないけれども。

 

そうした趣旨なので、まずはできるだけJシリコンバレー特区構想を生かす形での修正を考えてみる。実は、この構想の目的を税収確保と書いているが、税金は社会として厚生を高める手段を講ずるために必要なのであって、税収自体を目的とするのは本末転倒ではないかと思われる。むしろ、「世界的ベンチャー企業をどんどん生み出してもらう」というような文章もあるので、イノベーションベース型経済を日本国内に生み、これを通じて経済的な豊かさを導くとことと考えるほうがよい。いずれにせよ、特区の狙いは、そのために高度な能力を持った人材が集まった知識クラスターを生成し、それを梃子に日本国内全体の経済活動に結びつける(ちなみに、これに伴い税収も上がる)、といったところであろう。

 

しかし、このような高度な人材が集まってくる最も大きな理由は、まさに触発されるような高度な人材がそこに大勢いて、そこにイノベーション文化があることなのではないだろうか。(前回も同趣旨を書いたつもりであるが)分裂君の構想は、要するに高度な能力をもった人材にとって住みやすい物的あるいは金銭的な環境を整備することが中心に語られているが、これは人材が集まる必要条件でありえても十分条件ではない。しかもこうした環境面は他の国もおそらくは容易に用意できるものだ。

 

したがって、発想としてはむしろ逆に、まずは、高度な人材にとって非常に興味がわき、彼らが集まって協働したり、情報や意見を交換し合ったりするようなプロジェクトが先に必要ではないだろうか(分裂君は「Jシリコンバレー大学を設立して世界中の優秀な教授や大学講師をヘッドハントしてきて集める」「英語圏の一流大学の分校をこの特区に誘致する」などと書いてあるが、それをどうやって実現するかことが大問題であるはずである。簡単にホイホイと日本に来てくれると思わないほうがよい)。そうした世界から人が集まるようなプロジェクトとして、まず日本こそがその場所として相応しいようなものを核にしていくことが考える順番として先であるはずである。そして更に日本における経済活動全体にどのようにつなげていくかのリンク等を考えていくべきである。

 

残念ながら、そうようなプロジェクトとしてどのようなものが考えられるのか、私にはわからない。Jシリコンバレー構想を推進する場合、この点を構想の提案者がよく検討してみるべきだと思う。

 

ただ、このような特区が上手くいく可能性は否定しないものの、この特区構想を私個人としては買わない。それは、こうしたプロジェクトについては、政府すら確信をもってこれが成功すると断言できないはずだからである。どのような開発プロジェクトであっても人間が先験的に成否を判断することはできない、ということもあるし、政府と民間の間の情報の非対称性(政府の失敗の一つとしての)もある。本家シリコンバレーが成功したのも、政府の計画によってではなく、自生的に人々が集まったからであろう。上で述べたように環境整備を先に考えずにプロジェクトを核に考えて構想を進めたとしても、巨額の税金等の投資が必要と考えられる本特区構想が成功する保証はない。すなわち、大きな損失を被る可能性は大きいのである(そのような先例もある)。政府において責任のある立場の人間であれば、この構想を進めることはギャンブルであり、消極的に対応すべきことであると思う。

 

むしろ、もし投資をするのであれば、別のもの、例えば、日本人の人的資本に投資するのが一つのとるべき方法であると思う。その一つとしては日本人の語学能力工場があると思う。世界の高度な人材と交流する上で、日本人の語学能力の低さは知識の吸収等の面で大きな障害になっているように思われる。このことは日本の生産性にも影響しうる。こうした点に投資してもよいのではないか。

 

 

 

(追記) ここまで書いたところで、bewaad氏が分裂君のエントリーに対してコメントをしていること(「日本はレッドオーシャンに浮かぶ島国となるべきか?」)を発見した。私が先日言ったと類似しており、基本的にその趣旨には賛成である(もっとも氏の方のエントリーの方が先であった)。ただし、結論として、「まずはデフレを脱却すること」を主張しているのは、ワンパターンであるだけでなく、少々分裂君の問題意識からややずれているようにも思われた。デフレ脱却の重要性については、私もサイトのバナーから分かるとおり異論はない。しかし、ここでの分裂君の構想は、「目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。」と書いてあるように、長期的なものであり生産性をあげるためのもののように思われる。デフレ脱却という当面の課題(もちろん継続的にも必要だが)とは多少視点が異なっているのではないか。

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書評:海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書)

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54) パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54)

著者:海部 美知
販売元:アスキー
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本書については、先日このブログでまとめを書いたところだが、それに対する自分の考えを整理するに時間がかかってしまった。言い足りないことも多々あるだが、ひとまずの整理はできたので、以下に記してみたい

 

1.「パラダイス鎖国」というベクトル

  「パラダイス鎖国」とは、経済の実体を示すだけではなくて、内向きにこもって安住していたいという心理的な傾向も示すような響きのある言葉である。著者が意識しているかどうか分からないが、この言葉には、日本経済とか、企業活動とか、あるいは個人の消費活動とかいった「実体的なもの」に関するものと、人々の意識や心理に関するものの2種類が含意されていて、1980年代やそれ以前と比較した時の、現在の日本の経済の実体と心理の「方向性」あるいは「ベクトル」をうまく表現しているように思われた。 

確かに、絶対水準で1980年代と比べると、実体面では、明らかに日本市場の対外開放度や企業のグローバル化度は高いであろう。日々の生活においても、外国人の姿(欧米人だけでなくアジアからの人々、それ以外の地域の人々)は当たり前のように身の回りで見られ、心理的な抵抗感や偏見も少なくなっているように思われる。しかし、「ベクトル」という点からすれば、かつてのように明らかな開国へ向かっていた方向とは異なり、できれば内に閉じこもうという傾向が目立つようになっている。本書の第一章で書かれているいくつかの事例はまさにそのようなものだが、このほかにも、例えば、先日のFTの記事について書いたように、日本の企業社会や政府は、外資を含めヨソモノを相変わらず受け容れることに相変わらず消極的な傾向が強いことをあげることができる。近年、マスコミやネットで見られる日本に閉じこもろうとするような退行的な言論も別の一例としてあげることができるかもしれない。こうした日本で広く見られる実体的な事象、そしてそれらに共通する心理的傾向を、「パラダイス鎖国」という言葉で適格に表現しているのが著者の秀逸なところである。私が「パラダイス鎖国」というフレーズに共感してしまうのは、こうした1980年代までの日本で感じられた「ベクトル」と、現在の日本で感じられる「ベクトル」との間にある明らかな相違を実感するからだと思う。 

 

2.議論の混乱 

ただ、こうした「パラダイス鎖国」状態がなぜ克服され、「ゆるやかな開国」に向けて進むべきなのか、という点についての本書の説明には、どうも説得力があまり感じられない。もう少し具体的にいうと、パラダイス鎖国について語った第1章、第2章と、多様性のある社会へ進むことを問いた第3章、第4章との間には、齟齬が感じられ、すっきりつながってこないのである。なぜなら、第1章、第2章では国を開くか閉ざすかという問題が主に述べられているのに対して、第3章、第4章で語られているのは、むしろ多様性をもった社会で試行錯誤を繰り返していくかどうか、という点だからである。わかりやすく言えば、著者が本書の後半で主張する多様な価値観をもった人々がいろいろと試行錯誤を繰り返していってイノベーションを生み出していくような社会は、海外との関係が一切なく、国内だけでもを作ることは十分に考えられるからである。無論、多様な価値観を持った人々には海外の人間も含まれうるし、おそらくその方が多様性が高まり著者は望ましいと考えるだろうと思うが、海外に開かれることは第3章や第4章で述べられる著者の主張においては絶対的な必要条件ではないように読める。 

こうなってしまったのには、一つには、著者が「海外に出るか/国内に留まるか」というモノサシだけで現状の問題を語ろうとしまったからではないかと思う。確かに、この尺度で見た内向きの傾向というのは今の日本の一つの傾向を端的に表している(その意味では「鎖国」という言葉は適切な言葉である)。しかし、著者が本書の後半で述べる主張からすれば、前半では文字通りの「鎖国」状態だけではなく、「居心地の良い今の環境、自分がよく知り慣れ親しんでいるものに安住したい」「新しいものを危険を冒して取りに行くよりも、既得のものを守ろう」という「守り」の心理や行動、さらに、それに対する批判に対して、むしろ「現在の居心地のよい環境や自分たちの慣れ親しんだものを積極的に肯定しよう、自分たちの良い面を見よう」という「反動」の心理や行動を、現在の日本の問題とすべきであったように思う。それほど「パラダイス鎖国」というフレーズはインパクトが強い表現なのだろうが、逆に著者自身がその言葉(特に「鎖国」の部分)に引きずられて議論がゆがめられてしまった感じだ。 

こうした歪みがあるせいなのだろうか、特に第2章は何がいいたいのかよく分からなくなっているように思われる。例えば、著者は「パラダイス鎖国」現象の本当の問題として、「海外におけるジャパン・ブランドの低下」「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」の3点であるが、よく考えると、これらがどうして問題なのかがはっきりしない。 

       
  • 「ジャパン・ブランド」がどうして重要なのだろうか。確かに、海外で「ブランド」を確立していれば海外で売れるとは思うが、それは一部の輸出産業(特に大衆消費財)についていえることであり、必須の条件とはいえないのではないだろうかまた、これが個々の企業だけではなく、「内需中心」の日本経済全体、あるいは日本の個々人にとってどのような意味で重要なのかが分からない。個々の企業の製品のプランドを「ジャパン」という国籍と結び付けている点も安易に思える。
  •    
  • 「パラダイス鎖国」という言葉が「外界には関心を持っていなので、特に対応しなくてよいだろう」という意識のことを指すのだとしたら、「変化が遅くて外界に対応できていないこと」自体はトートロジーに近いし、そもそも日本が「変化が遅くて外界に対応できない」というのは昔から言われていたことのように思う。むしろ、このことがどのような意味で問題なのか、すなわち、外界の変化になぜ迅速に対応しなければならないのか、という点をもっと述べるべきであっただろう。その際には、この点が誰(何)にとって重要なのかという説明も必要である。
  •    
  • 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」という点も、かつてとの比較で現在日本が「パラダイス鎖国」になったことの説明の一つになっているに過ぎず、これが、誰(何)にとってどんな問題なのかが語られていないように思う。著者の考え方は、海外へのあこがれが日本人の労働インセンティブにかつてはつながった、そして海外へのあこがれの喪失が日本人の労働インセンティブの喪失につながっている、という議論に私には読めたが、確かにそういう関係は一部にはあるだろうとは思うものの、海外へのあこがれで人々の労働インセンティブの多くを説明するのはかなりバランスを欠いた議論のように思える。 

こうして見ていくと、筆者の議論にはある種の思い込みや偏りがあってそれが混乱を生んでいるところがあると思う。一つは、海外への憧れ(人々のインセンティブ)→輸出(海外で売れること)→日本製というブランドの確立→経済発展/国際競争力(?)というような図式を想定していると思われることである。一部にはそうした関係もあることは否定しないが、海外での日本企業の活動自体を過剰に重視していて、これですべて説明するのは経済学的に言って無理がある。日本のように内需中心の大国では、国内での経済活動の方を問題とする考え方の方が真っ当である。 

また、著者の経歴からするとやむをえない気もするが、どうしても海外で製品を売るような産業、特に携帯電話等の電機産業に偏りすぎている印象がある(あくまでも憶測だが、本書やブログの読者にも多少の偏りはあるのではないか)。上で述べたとおり、国内中心の産業(例えばサービス産業)はどうなのか。また、海外での売り上げの大きい産業といっても、電機メーカのほかに、自動車メーカはもちろん、多少地味だが素材メーカ等、世界的シェアが高い企業は日本にかなり存在する。むしろ、日本の電機業界は、モジュール化の進行の中で比較優位を失っている点もあるので、これだけをもって、現状の日本全体の問題点を語るのは十分とは言えないだろう。 

さらに、本書全体を通じてそうなのだが、日本の何について語っているのか、という点もごっちゃになっている印象がある。つまり、日本社会を構成するひとりひとりの個人(=労働者/消費者)のことか、日本をベースとする企業のことか(なお、本書で語られているのは一部の産業のみ)、それとも日本全体(マクロ経済、社会全体、あるいは国家)のことか、いずれもあまり区別されてないで論じられているように思う。しかし、これらは相互に密接に関連しているものの、これらがすべて同じ方向を向いているはずはないし、いつも同じ利害を共有しているはずもない。多様性のある社会を望む著者の主張からすれば、むしろそれらを明確に区別していくことが必要と思うのだが。 

特に第2章の議論には、他にも問題とすべき点が多いように思う(特に経済学的な視点からすると)。いちいち噛み付ける気力体力能力もないが、一つだけ例を挙げれば、「国際競争力」のランキングを使っていることである。これはいろいろと問題が多く(詳細は省くが、例えば飯田泰之『ダメな議論』(ちくま新書)第5章参照)、これを使って議論するのは不適切と思われる。この第2章に限らず、全体を通しても、議論の組み立てという点でいえば、まだまだ課題が多そうだいというのが本書を読んでの感想である。

 

3.現在の日本の何を問題と考えるべきか 

では、著者が本書の後半で述べる主張の観点から言えば、今の日本の何が問題なのか。現在の日本での様々な現象を考えるに、私は、日本が成熟した先進国となった今、様々な持てる「資源」(金融資産、物的資産、人的資本、さらには技術といったもの)を有効活用することが必要になっているにもかかわらず、それら資源を有効に活用できていないし、また有効に活用すべき術を理解していないことが一番大きいと思う。 

その一つの例は、第4章で述べられている雇用である。本書で問題とされているように、終身雇用的な慣行には利点もあるのだが、必要なところに必要な人材を配分することを難しくするという欠点もある。市場原理は以前よりも導入されており、終身雇用的な雇用慣行もかつての力は失われつつあるが、しかし今だ強固に主要企業のコア部分で継続しており、現状では、人材の有効活用という点では有効に機能していない。 

また、著者のブログで最近述べられている「成長」の話題も、結局、日本企業は持っている資源の使い方が基本的に下手であることを示しているように思う。極端に言っててしまえば、日本企業は、「できるだけ効率的にお金を儲ける」という原理に忠実でなく、手間をかけずに儲けるために知恵を絞ることをサボっているのだ、と私は考えている。 

もはやかつてのように放置していても自然と高度成長が進むような状況は望めず、資源(資産、人的資本など)が限られてきているという環境変化を念頭に置くならば、日本としては、いかにして、この限られた資源を有効に活用していくかという「術」に頭を働かすべきである。今までのようなひたすら一点にむかってひたすら頑張る(こういった姿勢がなぜか日本では美徳とされるのだが)という戦術(著者の言葉でいえば「果てしなき生産性向上戦略」)は、かつては成功したが、それを今なお皆がこぞって続けるのは能がない。まるで、日露戦争で成功した戦術を太平洋戦争でも使い続けた旧軍みたいなものである。著者が本書で主張する国内、既存の組織の資源ばかりに頼らず、多様性を増大させ、「試行錯誤戦略」も採用していくことは投資戦略としても妥当だし、またそうした途を模索していくべきであろう。そうした意味で、著者が本書の後半で述べている方向性には同意できる。「プチ変人」を含めた多様な人材を許容していくこと、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすること、時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうことなどは、確かに有意義であろう。

 

4. 多様性のある社会は実現するか 

しかし、目指すべき方向性があるとしても、それを実現することは別の話である。例えば、著者のいう雇用の流動化についても、かねてより主張する人は多いが、なかなか実現しない。新卒の人間にまで強い終身雇用願望が存在している現状がある。実際、雇用流動化を進めることには中立的な立場の人からも否定的な見解が示されることもある。 

著者の主張するゆるやかな開国、多様性のある社会、あるいは厳しいぬるま湯などをどのように実現するか。どのように日本をフルモデルチェンジしていくのか。ここが大きな課題である。そこは著者の考えを知りたかったところだが、残念ながら、本書はそこには触れていない。どちらかというと、こうしたものをつくりたいという願望を描いたラフな企画書・スケッチに留まっており、その実現性まで考慮したプランに至っていない。その点に本書への物足りなさをを感じたのは事実である。ただ、これが大変難しい課題であるのも事実であり、私もここで論じる余裕はない。 

しかし、それでも、「パラサイト鎖国」論を通じて、現状に感じている閉塞感を打ち破りたいと感じている数多くの個人に、それを解消する未来像を分かりやすく示している点は大いに評価できると思う。心理的な閉塞感の解消を期待させる本書には、共鳴する一般の読者は多いだろうと推測する。その意味では、新書版という手軽な媒体を通じて、日本に住む個々人の意識を徐々に変えていき、それを将来の変革へつなげていく可能性を開いたことにこそ、本書の意義があるのかもしれない。

* 著者は、ブログで「 ち なみに、読者の皆さんへのお願いです。本の感想は、ぜひ、mixiとかのクローズドな媒体だけでなく、アマゾンの書評にも書き込んでください!」と書かれ ているが、とてもAmazonのレビュー(800字)には入りきらないので、ひとまずこのブログに置いておくことにする。Amazonには別途簡潔なバージョンを書ければよいとは思っているが、本書の販売促進からいうと迷惑な書評になってしまうかも。

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「Jシリコンバレー特区」構想について

シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法 - 分裂勘違い君劇場

   
   

東京から直通電車で20~30分くらいのところに、経済特区を作る。仮にJシリコンバレー特区と呼ぶことにする。

    

この特区では、英語が公用語。役所、医療施設、学校、レストラン、スーパー、電車、交通標識など、あらゆるものが英語で運用される。この特区内の企業に年収500万円以上で採用された外国人には、この特区内だけで働けるワーキングビザが発行される。当面は、インド、中国、西欧、北米、旧共産圏などの高度知識労働者をこの都市に集めることを目指す。目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。・・・・

   

読んだ第一印象は、「いかにも、政治家や官僚やタレント系の学者、コンサルタントなどが考えそうなこと」というもの。シリコンバレーにならって、クラスターを作ろうという構想はこれまでもたくさんあったが、実際に上手くいったものはあまりないのが実状。このJシリコンバレー特区構想は、規模的にもより大きく、海外によりオープンにするなど、大胆なものとなっているのだが、発想としては、そういったものの延長線上にある、「ハコモノ」中心、受け入れ側の視点中心の思いつきに思え、これだけでは、あまり上手くいきそうにないなあ、という感じがする。決してネガティブに捉えたくはないだが、ちょっと考えただけでもいくつか課題が思い浮かんでしまう。

   

第一に、受け入れる日本側の都合ばかりで考えられていて、海外から来る人々にとってのこのJシリコンバレー地区で活動しようというインセンティブが乏しいのではないか、という点である。確かに、英語とか、交流スペースとか、税制とか、インフラとか、安全とか、生活支援サービスとか、あったらいいものばかりであるが、しかし、それらがあるからといって、高度知識労働者がわざわざ日本に来たいと思うだろうか。どこの国、どこの地域でも、高度知識労働者は集めたいはずで、そうした国や地域との獲得競争になって勝てる勝算が十分にあるのかどうか。EUだって、韓国だって、中国だって、インドだって、全力で取り組んでくる可能性も考えないといけないし、現在において、言葉や市場規模、外資・外国人受け入れ環境等、日本はスタートラインとして不利な立場にある。そもそも今あるシリコンバレーよりも日本のJシリコンパレーが魅力的にみえるほど強烈な誘因は何かあるのだろうか。カネや環境ばかりが問題じゃないだろうし。東京や日本の優良顧客って他地域と比較してそんなに魅力的なものなのだろうか。

   

第二に、第一の点とも関連するが、書かれているような「ハコモノ」(かならずしも物理的なハコモノとは限らないが、目に見えやすいもの、という意味)だけでなく、海外からきた「上客」を満足させるだけの、運営のノウハウ、技術が不可欠である。しかし、そうしたものが日本にあるのか、またそうしたものを短期間で整備できるのか、正直疑問。

   

第三は、ヒト、モノ、カネ、土地。どれくらいの規模のものを想定しているのか分からないが、もし本格的に意味のあるものを現実のものとするのには、大変なカネがかかるし、また日本にいる英語+αのできる人材、土地を相当に集めて投入しないといけないと思う。これには大変な費用がかかるのではないか。東京から20-30分程度の場所だと、たくさんの住民を立ち退かせないといけないかもしれない。また、こうした直接的な費用だけでなく、文化的摩擦など、海外からの人間が流入することによる様々な間接的なコストもある。

   

第四に、これら費用を正当化するだけの便益が本当にあるのか。書かれていないのでよくわからない。

   

第五に、こんなに費用もかかる構想について、おそらく直接裨益しない大多数の日本国民を説得できるのかどうか。

   

全体として言えば、こうした発想を提示するのは良いことだと思うけれども、書かれたものだけを見れば、まだ、受け入れる側のバラ色の構想(というか願望)ばかりが前面に出ている段階にみえる。冷徹に損得勘定した結果として出てきたわけではないだろう。まあ、私もあまり欠点ばかりあげつらうのは好きではないし、これを書いた御本人もこうした欠点はあることは先刻承知の上でひとまずの構想を書いて出してみたのだろうから、ひとまずここは課題の指摘ということで、続編を期待。成功のためには、想像力とともに、人々のインセンティブ等を考えた精巧なソシャル・デザイン、メカニズム・デザインが非常に重要だと思う。

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メモ:英エコノミスト誌 Grossly distorted picture

英Economist誌には、Economics Focusという経済学に関する1ページのコーナーが毎号も受けられている。先週号に以下の記事が載っていたのを今日になって知った。このブログにポイントを載せようとでも思ったが、すでにいくつか日本語のサイトで取り上げられているので、以下、メモ程度にて。

15日付の英誌エコノミスト最新号は、コラム「エコノミクス・フォーカス」欄で、 ここ数年は日本がゼロ成長、米国は比較的高成長だったとのイメージが定着しているが、 1人当たり実質GDP(国内総生産)で見ると、日本が米国を上回り、先進7カ国中でも 英国に次いで2位の伸び率だったと伝えた。

同誌によると、2007年までの過去5年間の年間平均実質GDP伸び率は、米国が2.9%、日本が2.1%で、米国が大きく上回っている。ところが、 平均的な生活水準のおよその目安である1人当たりGDPで見ると、日本が2.1%、 米国は1.9%と、伸び率が逆転する。 同誌は、1人当たりGDPが経済状態の最良の尺度とすれば、リセッション(景気後退)の標準的な定義(四半期ベースで2期連続のマイナス成長)にも欠陥がありそうだと指摘した。例えば、日本の場合、成長率がゼロでも、人口が減少しているのだから、 1人当たりの生活水準はそれだけ豊かになっている。 これに対し米国では、昨年第4四半期のGDP伸び率が年率で0.6%となったが、 1人当たりの実質所得は0.4%減少、リセッション入りしたとみられる。
   同誌は「日本政府が1人当たり所得の伸びをもっと強調していれば、消費者も元気になり、支出を増やしていただろう」とし、「そうなれば日本のGDPの伸びももっと力強くなっていたはずだ」と結んでいる。
http://www.zakzak.co.jp/top/2008_03/t2008031709_all.html
(2ch経由。ちなみにこのスレッドでのコメントはピントはずれのものばかり。)

原文はhttp://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=10852462

一人当たりGDPは豊かさの指標であり、その成長率を見るのは当然のこと。しかし、そのような当たり前のことは実はそれほど当たり前に行われていなかったのが実態なのだろうか。市場全体を相手にする企業等にとっては、一人当たりのGDP成長率よりもGDPそのものの成長率の方が重要であろうから、むしろそうした企業等のサイドの立場でGDPという指標が見られているのが一般的ということなのだろうか。

日本がG7中で第2位というのは確かに意外ではあるが、このことは少子化の議論との関係で興味深い。少子化が問題だとする一般的に広まっている見解に対しては、人口減少自体は問題ではないとの見解がある(例えば、大和総研原田泰氏)。今回のエコノミスト誌が示した数字もこうした視点から議論してみると面白いだろう。

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自民党国会議員のリーダー選定能力の衰退

福田内閣が提示した田波氏(国際協力銀行総裁)が野党多数の参議院で同意が得られなかったことによって、日銀総裁は明日から空席となった(白川副総裁が代行)。空白になったことを嘆く見解がマスコミに多数出ているが、ここまで来たのは福田総理の責任が最も大きいということは認識しておく必要がある。

民主党に問題があるのはほとんどの人は否定はしないだろう。しかし、民主党が財金分離を主張し武藤氏を拒否した以上、元財務事務次官である田波氏を提示しても、立場上、民主党は拒否せざるを得ないのはわかりきった話。田波氏を立てて断られたからといって、民主党を日銀総裁空席の主犯にすることはできない。故小渕総理は民主党の提唱する金融再生法案を丸呑みすることによって金融国会を乗り切ったのとは対照的である。総理大臣としての指導力がないといわれても仕方がない。

自民党の伊吹文明幹事長は十七日の記者会見で、各種世論調査で福田内閣の支持率の低落傾向に歯止めがかからないことについて、「不支持の大きな原因は多分、指導力がないということではないか」と述べ、国民が首相の指導力に疑念を抱いているとの見方を示した。

伊吹氏は参院で野党が多数を占めるねじれ国会の影響で日銀総裁人事が難航していることなどを念頭に、「参院で過半数に達していないので、円滑な政権運営ができない。国民の目から見ると、モタモタしている。今のような参院の状況では、誰がやってもそのように映る」と指摘した。(東京新聞2008年3月18日 朝刊)

しかし、指導力のない人物を、昨年の党総裁選で圧倒的に支持したのは誰であったのか。自民党の国会議員たちである。そうした指導者としての能力のない人間を二代続けて総理総裁として担ぎ出した彼ら自民党国会議員たちに大きな問題があることは十分認識しておくべきであろう。その前の総理、郵政解散で自民党を大勝に導いた小泉氏は、2001年に一般党員の投票で圧倒的勝利を得たので総理総裁になったのであり、その際国会議員の多数は敗北した橋本氏を当初支持していたのではなかったか。さらにその前の、不評を買うばかりだった森氏は、小渕総理の突然の死後、当時の自民党幹部の談合で決まった総理総裁であった。

こうして見ると、もはや今の自民党の国会議員たちに自分たちのリーダを決める能力はない、といわざるをえない。国民の負託にこたえるリーダーを選ぶ力はないということである。そうした人々に引き続き政権を託してよいのかという疑問を呈する声が出ても不思議ではあるまい。

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ケインズ"...In the long run we are all dead..."の部分の和訳

Paul Krugman がブログでAlan Greenspanを批判している。自分がFRB議長であったときにバブルを見ようとせず何もしなかったのに、現在の米国の金融危機に対して淡々と評価をし、レッセ・フェールを再確認して文章(FTへの寄稿)を終えているGreenspanの姿勢を批判したのだが、その中でKrugmanは、ケインズの『貨幣改革論』での有名な文章:

What Keynes said:

In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

を引用している。Greenspanをケインズがここで批判的に書いているようなエコノミストであるといっているのだが、この部分の和訳を、参考までにググッてみた(英語の意味は大体分かるのだが、日本語にする時どうするかとふと思ったので)。実は、ここの部分のすべての日本語訳を載せたサイトはほとんどないことが分かったのだが、最初に、官僚ブログで有名なbewaad氏のブログのプロフィールが出てくる。bewaadというHNはまさにこのケインズの文章に由来するからだが、そこでは一つ前の文章から書き始められているが、

This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

(長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。 大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。)

という訳。bewaad氏自身の考え方まで織り込んでしまっている。さて、もう一つの検索結果もみると、

■This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

政府や専門家の思わせぶりな甘言にもかかわらず、長期不況からの出口は依然として見えないが、日銀を含む経済官僚や銀行家、経済学者、エコノミスト、諸々のアナリスト(w の無能さが白日のもとにさらされたことだけは良いことだったと思う。さて上の英語はケインズの有名な言葉だが、以下の訳はいかがなものか。

(1)長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。
(2)・・・・長期的にみると、われわれはみな死んでしまう。 嵐の最中にあって、経済学者にいえることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である

(1)は先ほどのbewaad氏の訳。(2)は出典不明(ケインズ全集?)。いずれにしろ、「以下の訳はいかがなものか」というのは同感。たいした能力もないが、私なりに訳してみると、

「この"長期"というものは、現下の問題に対しては誤った指針になる。長期的には我々はみな死んでしまっているのだ。経済学者が、嵐の吹くような激動の時期に「嵐が遠く過ぎ去ったときには海は再び平穏になるものだ」ということしか言えないのであれば、彼らは、あまりに安易で無用な仕事を自分に課していることになる。」

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海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書):まとめ

先日(3月11日)の八重洲ブックセンターでのトークショーは、この本と、中島聡氏の『おもてなし経営学』の出版を記念していたものであった。その模様の概要にも書いたが、トークショーの際には本書を読んでいなかったので、さっそく読んでみた。

 

タイトルの「パラダイス鎖国」は著者が2005年の夏にブログした言葉。著者によると、

 
   

「もう日本人は海外に行きたくなくなったし、海外のことに興味がなくなったのかもしれない」と感じた。そして、その状態を「パラダイス鎖国」と名づけた。(p13)

 

現在の日本の状態を指すものとして、知る人ぞ知る言葉である(なお、同類の状態の日本を指す言葉として、「ガラパゴス化」という表現もされる)。そうした言葉を生み出した海部氏の著書として、待望の本である。

 

さて、本書の内容だが、次のとおりの構成となっている。

 
   

第1章「「パラダイス鎖国」の衝撃

   

「パラダイス鎖国」の状態の日本を示していると言える事例を紹介。海外旅行に行かなくなった日本人、邦画・Jポップの興隆と洋画・洋楽への興味の低下、海外(アメリカ)で人畜無害となってきた日本人のイメージ、携帯電話をはじめとする電機産業の内弁慶ぶり、など。

   

第2章「閉じていく日本」

   

これまでの日本のグローバル化は、2つの公式、すなわち「公式1:数の多い方が勝ち」、「公式2:グローバル・ブランドの確立と維持」によってきたが、その後の新たな公式が見つかっていない。「パラダイス鎖国」となった日本には、(1)「海外におけるジャパン・ブランドの低下」、(2)「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」、(3)「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」、という3つの問題がある。

   

第3章「日本の選択肢」

   

アメリカは「パラダイス鎖国」の先輩であるが、各種のモデルが存在する多様性をもっており、そこに「内なる黒船」によるイノベーションベースの経済が成立している。「パラダイス鎖国」となった今の日本には、(1)これまでの「果てしなき生産性向上戦略」をとる(マイナーモデルチェンジ)か(2)新しく「試行錯誤戦略」をとる(フルモデルチェンジ)かの2つの選択肢があるが、「ゆるやかな開国」で、イノベーションベースを起こして成功する経済、「変化を先取りする体質」を目指すべき。この際、「ゆるやかな開国」とは、多様性のあるものが共存すること。そこに、「厳しいぬるま湯」を作り出し、ここから「内なる黒船」を生み出すことが必要である。

   

第4章「日本人とパラダイス鎖国」

   

イノベーションを起こすには「プチ変人」を育てて受け容れることが必要である。また、現在の日本では昔ながらの雇用慣行が阻害要因になっていることが多いが、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすればゆるやかな開国も進む。時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうべき。いま、多くの普通の日本人が軽やかなグローバル化を選んでいる。「パラダイス鎖国」の一番危険な点はバランス感覚をなくすこと。少しずつ開国へ向かっていこう。

 

著者が言いたいことは感覚的によく分かるものだし、個々の表現・内容を見ると特に難しいものはない。したがって、多分、多くの人は読みやすい本だと思うだろう。しかし、いくつかの事項がごちゃ混ぜになっており、また「?」と思われるようなところもあって、(意外に思われるかもしれないが)実際のところ、上のようにロジックを整理してまとめるのには思ったよりも時間がかかった。

 

そういうこともあって、本書に対する評価については、改めて書くことにしたい。→ 書評(3/23)

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日銀総裁・副総裁人事(続)

衆参両院は11日、議院運営委員会をそれぞれ開き、政府が次期日銀総裁候補として示した武藤氏と、副総裁候補の伊藤氏、白川氏への所信聴取と質疑を行った。これを受け民主党は党内の意見調整に着手。財務金融部門会議では、武藤氏について「金融の経験は日銀で副総裁を務めた5年間だけだ」などの反対論が相次いだ。伊藤氏についてはインフレ目標政策を掲げていることを問題視し異論が出た。

毎日新聞 2008年3月12日 東京朝刊

だ、そうである。溜息しかでませんね。経済板@いちごの次期日銀予想スレでのドラ氏のコメント:

>803: ドラエモン 2008/03/15(Sat) 19:12

だが、伊藤T氏を拒否するということは、もう経済諮問会議にメンバーになるような奴は今後は人民の敵と認定するという意味。これじゃあ、ミンスのアドバイザーになったりすると、今後は政府・自民党から公職就任をパージされても文句は言えなくなる。たとえば、浜田先生とか、小宮先生みたいな政府の機関で研究所長という政治任命のポジションに着くことを、かつてミンスのアドバイザーやったと言うだけの理由で拒否されても文句言えなくなる。こんなことしてると政策志向の強い学者は誰も寄りつかなくなるわなぁ。

でしょうね。それに加えて、政党色が強い「学者」が逆にたくさん出てきそうな悪寒。

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前回、否決された国会同意人事(昭和26年)

日銀総裁・副総裁の国会同意人事について、昨日、参議院が否決したが、これは1951年に電波監理委員会委員の人事を参議院が不同意として以来56年ぶりとの報道があった。そこで、この1951年の不同意はどのようなものだったか興味本位で調べてみた。

  

当時の参議院の本会議の議事録は、次のものである。

  
   

第010回国会 本会議 第50号      
昭和二十六年五月三十一日(木曜日)      
午前十一時十六分開議      
━━━━━━━━━━━━━

    

(中略)

    

一昨二十九日、内閣総理大臣から、電波監理理委員会設置法第六條第一項の規定により、上村伸一君を電波監理委員会委員に任命することについて、本院の同意を求めて参りました。本件に関し、議長は、あらかじめこれを議院運営委員会に諮りましたところ、同委員会においては同意しない旨の決定がございました。これより本件の採決をいたします。本件に関し同意を與えることに賛成の諸君の起立を求めます。      
〔起立者少数〕      
○議長(佐藤尚武君) 少数と認めます。よつて本件は同意を與えないことに決定いたしました。

  

その前年の昭和25年(1950年)5月2日の第7回国会の参議院本会議議事録を見ると、上村氏は他の委員とともに同意を得ているので、翌年に人事不同意になるまでの1年は電波監理委員会の委員であった。

  

この前日の昭和25年5月1日に行われた第7回国会の参議院議院運営委員会の議事録によると、この上村氏は行政官であったとある(ちなみに、説明者の小沢佐重喜氏は、当時の吉田茂内閣の郵政大臣兼電気通信大臣で、現民主党党首小沢一郎氏の実父である)。

  
   

○国務大臣(小澤佐重喜君)先ず電波監理委員会から考えますと、いわゆる公正妥当な委員会の審議振りを期待いたしまして、各部門から專門の、或いは良識ある方をお願いしたつもりであります。即ちこの七名の委員の選考に当りましては、先ず文化方面から一人、一般行政面から二人、それから産業方面から一人、電波行政及び科学技術面から一人、一般科学技術面から一人、法曹界関係から一人、こういうような線を分けまして、このうちに当嵌るような人を挙げたつもりであります。委員長の富安さんは、いわゆる文化関係という意味で御推薦を申上げたのであります。それから上村伸一君と瀬川昌邦君は一般行政面という関係で御推薦申上げました。(後略)

  

この上村伸一氏は、実は、外交官である。再び昭和26年の第10回国会の参議院議院運営委員会(上述本会議前日の5月30日)の議事録を見ると、次のとおり政府(岡崎勝男官房長官)から説明があった。

  
   

○政府委員(岡崎勝男君) 電波監理委員会委員上村伸一君は、来たる五月三十一日任期満了となりますので、同君を再び同委員に任命いたしたく、電波監理委員会設置法第六条第一項の規定によりまして、両院の同意を求めるために本件を提出いたします。      
上村君は、大学卒業後外務省に入り外交官として欧米諸国及び中華民国に在勤し、外務省政務局長特命全権公使等を経て昭和二十四年三月官を辞したものでありまして、二十有余年に亘る外交官としての経歴は、海外事情に通ずる有識者として昨年任期一年の委員に任命されたものであります。同委員会委員として我が国無線事業の向上発展に多大の寄与をいたして来たものでありますので、今回同君を同委員会委員として最適任と考え、両院の御同意を求めるために本件を提出いたした次第であります。

  

臨時在英大使などを務める等しており、同じく元外交官であった吉田茂首相(当時)との関係(上村は外務省で吉田の後輩に当たる)で任命されたのかもしれない。

  

この日の議事録を更に読むと、電波監理委員会が設置されたのが上述の昭和25年で、7人の委員それぞれの人気を1年ずつずらしていたことが分かる。上村氏の場合は、その中で1番短い1年間の任期であったので、このため翌26年に改めて国会の同意を得ることになったようである。

  

さて、否決された理由だが、翌31日に開催された同じく議院運営委員会の議事録を見ると、

  
   

○鈴木清一君 その前にちよつとお尋ねしたいのですが、官房長官の今のお話でですね、政府のいわゆる総理が権利を持つておる、非常に選択ということに責任を持つと、こういうことを承わつております。聞くところによりますと、例えばまあこう出して来ておられます上村さんの問題にしても、この間何かアメリカのほうに行つておられるというようなことを聞いておりますけれども、任期を控えてそういうところに行つて、而も任期がなくなるということを承知の上に海外に出張さしておる。そういうことをさしておるということは、勿論総理大臣としては絶対的の信頼があるからこそそういうこともさしたのでしようけれども、併しそうだとすると、国会の任期を承認を求めるときに当つて、本人が任期を終つて任期中の仕事としてわきに行つておられるということになりますと、非常に話がおかしいのですが、この点については官房長官どういうふうにお思いでしようか。

    

○政府委員(岡崎勝男君) これはそういう点も考えまして電波監理委員会のほうでは五月三十一日までという期限を切つて出張命令を出しております。

    

○鈴木清一君 そうですが。わかりました。それでは採決を願います。

    

○委員長(山田佐一君) それでは採決をいたします。電波監理委員会委員任命につき同意を求めるの件を採決いたします。この同意を與えるというおかたの挙手を願います。      
〔挙手者少数〕

    

○委員長(山田佐一君) 少数であります。よつて……。

    

○事務総長(近籐英明君) 御参考までに申上げて置きますが、これは当委員会におきましては同意を與えるというかたが少数でございましたが、当委員会では同意を與えないという意思を決定されたのでございますが、この決定権はハウスにございますので、これはハウスの、つまり本会議にこれを上程いたしまして、これを本会議にお諮りいたすという、こういうことになるわけでございます。その点御了承願います。(「了解」と呼ぶ者あり)

  

つまり、上村氏は、任期が昭和26年5月31日、すなわち、この議院運営委員会(そして冒頭引用した本会議)の開催された日までだったが、この日までアメリカに海外出張をしていて不在であった、これがどうも議院運営委員会の多くの議員の気に障るところとなり、採決をとったところ同意への反対票が多数を占めた、ということのようである(議事録からは、他に上村氏に問題があることを主張するような発言は見当たらなかった)。もちろん、これが本当の否決の理由なのか、それとも海外出張を理由にした政治的な動き(例えば、吉田内閣のやり方に反対したいという意向)の結果なのかはよく分からない。ただ、同時にNHKの経営委員会委員の任命については、全員一致で賛成となっており、後者の線は薄いような気がする。前者が不同意の理由ならば、なんとも間抜けな話である。ただ、こうした議会の対応を現在と比較すると、当時は議事運営がほのぼのと行われていた時代であったのだなとも思う。

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日銀総裁人事

あきれてモノも言えない。特に、民主党が、武藤氏はともかく、伊藤隆敏教授にNoとは全く理解に苦しむ。学者と言ってもいろいろいるが、インフレ目標を含め、まともなことを言っている先生なのに。

 

もちろん、このような泥仕合にわざわざしている点では、自公与党も同罪。武藤氏に野党に反対するのが分かっていて改めて出すのだから。武藤氏しか総裁候補がいないなんてことないであろう。党利党略の極みである。

 

総裁に誰がなるのではなくて、総裁が何をするのかが問題なのではあるが、それでも経済政策ではあんたら国会議員よりも日銀総裁の方がはるかに重要なのだ(それが国際的スタンダード)から、真面目にやれよ、といいたい。もっとも、これが日本の国会議員のレベルなんだ・・・と考えるとorg。世界が注目しているのに恥ずかしい、情けない、という感覚は欠如しているのだろう。これも「パラダイス鎖国」の一例か。

 

##もちろん、こうした泥仕合の状況が生まれるのは、制度的な要因が背景にあることにも留意しておく必要がある。

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中島聡氏×海部美知氏 トーク

本日、第141回 八重洲ブックセンター特別講座:アスキー新書1周年記念として、   
中島聡氏と海部美知氏の トーク(&サイン会)に行ってきた(18:30~20:00、八重洲ブックセンター)。これは、アスキー新書から、両氏がそれぞれの以下の本を出したことを受けて開催されたもの(司会:アスキー遠藤氏) 。

 

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54)

著者:海部 美知
販売元:アスキー
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おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55) おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55)

著者:中島 聡
販売元:アスキー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

この両書は、つい最近刊行されたもので、私も週末に買って持ってはいたのだが、買ったばかりで時間がなくまだ読んでいない。その段階で聞いた内容なので、不正確なところもあるかもしれないが、概要は次のとおりであった。    

中島() 日本企業をこうしなければいけないという議論は多いが、一番大事なのは個人。海和さんのいう「プチ変人」はいい言葉。S・ジョブス等の変人が許されているのは成功しているからだが、成功しているのは変人だから。こうした変人と普通の人との間にプチ変人がいる。それを大切にしてよい。   

海和() プチ変人の芽をつぶすようなものが日本にはある。逆に持ち上げるようにすべき。   

「普通こうしたことはしないものだ」というのは暴力。それに対して戦ってほしい。   

「ぬるい環境」があるとよい。シリコンバレーは巨大なぬるま湯。   

マイクロソフトもグーグルもエンジニアあっての会社。エンジニアは「神」。   

グーグル等では価値はエンジニアが生み出している。   

ところが日本のIT産業では価値のほとんどを営業が生み出している(接待等を通じて)。これではエンジニアは「神」にはなれない。「何で?」と思う。エンジニアになることは素晴らしいこと。エンジニアが細かいことを決めていき、それが最終的に製品になる。ここで売れるか売れないかの問題になる。エンジニアもビジネスを勉強することが必要。   

エンジニアとビジネスの両方が分かる人は少ない。   

司会 シリコンバレーでは知の流通が良いといわれるが、日本にはないか。   

日本では会社ごとにサイロになっている。アメリカでは会社に就職しても安心できないので、いろいろな人との繋がりが重要になる。   

会社は乗り物でしかない。シリコンバレーでは特に。   

司会 日本にいる人に「こうしてはどうか」というものがあれば。   

グーグルではエンジニアが仕事をするのに半径200メートル以内に食べ物が必要だ、としているが、(自分が最初に就職した)ホンダで聞いた話と似ている。日本だからダメということはないと思う。本田宗一郎らができたのは、戦後の混沌の中だったから。積極的に混沌をつくり、厳しいぬるま湯をあえて作るべき。議論の分かれることをやるべき。もちろん、自分に賛成してくれる人たちの力が強くないと難しいので、サポートシステムも同時に作ることが必要。   

物事を動かすのは肩書ではなく、人とのつながり。会社を作るとき何人の人が自分に付いてくるか、ということ。多分日本も今後そうなっていくと思うので、日本の中でも作っていくべき。   

<質疑応答(一部のみ)>   

日本の子供が学ぶべきことは?   

その子によって異なるが、つぶしの効くスキルとしての英語。   

日本語でやっていると相手が限られてしまう。英語でやらないと認められにくい。日本には世界クラスのプログラマが何人もいるが、日本語で書いている限りは世界に知られない。もったいない。   

(徳力氏(多分)) 今日からやってもらいたいことは?   

「継続は力なり」。価値あるものは継続してやるべし。   

いやだったらやめればよい。我慢するからいけないのかもしれない。戦うか逃げるか。 

 

会場はほぼいっぱいであった。質問も結構でた。終了後にサイン会が行われたのだが、会場にいたほとんどの人が会場を去らなかったのには少々驚いた。多くの人はサインの列に並び、あるいはサインをもらうための本を買おうとしていた。その他部屋に残った何人かはおそらく関係者や知り合いだろう。私は、この2冊を電車の中などで読もうと思って両方とも手元に持っていたのだが、サインをもらう趣味はあまりないし、また行列の長さに辟易したので、少数派?として会場をあとにした。お二人はさぞかしサインで手がお疲れのことだったであろう。 

この手の講演会は時々聞きにいくのだが、会場の様子からも分かるように、熱心に聞きにきた人が比較的多かったように思う。対談の内容自体は、知識としては(なんとなくのものも含めて)知っていたり、あるいは自分でも同様に考えていたりするものが結構あったのは確かで、その意味で、この対談に革新的な目新しさというものを感じたわけではない(もっとも、お二人のブログを(それほど熱心でないにせよ)読んでいるので、その影響は多々あることは認める)。しかし、日本の組織の内部で生息する人間を「元気づける」-つまりその内発的な何かに訴えかけるー対談であったことは間違いなく、著者たちの話を直接聞くことができて良かったと思っている。実は、これと似たような感覚は、以前聞いた、梅田望夫氏の講演を聞いた時にも感じた。おそらく、会場に来た人々は、彼らが彼の地から運んでくる「米国西海岸の空気」を求めて、彼らのブログを読み、今回刊行された本を読み、そして会場にやってきたのではないか。まあ、それだけ、今の日本の空気が息苦しいものの証左でもあるのかもしれないが。てなことをとりあえず感じた次第。

  両氏の著書(及び今回の対談内容)についての感想は、余裕があれば近いうちに書こうとと思っている。

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先月、他に読んだ本

最近、書評のエントリーが多くなっているが、読んだ本すべてについて書評を書いているわけではない。先月は、たとえば、次の本を読んだ。

  まず、坂野潤治「未完の明治維新」(ちくま新書)。

未完の明治維新 (ちくま新書 650) 未完の明治維新 (ちくま新書 650)

著者:坂野 潤治

販売元:筑摩書房
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著者は日本近代政治史の学者で、田原総一郎との対談等も出している人。大正~昭和前期の歴史家というイメージを勝手に持っていたのだが、本書は明治維新期(1864-1880)の政治の図式を扱っている。簡単に言うと、明治維新の構想は、4つほど異なったものがあった。それは、 

       
  • 強兵論(幕末は佐久間象山に始まり、西郷隆盛らに代表される)
  • 富国論(幕末は横井小楠に始まり、大久保利通らに代表される)   
  • 議会論(幕末は大久保忠寛に始まり、板垣退助らに代表される)   
  • 憲法制定論(木戸孝允らに代表される) 

の4勢力である。これらのせめぎ合いで明治維新期の政治は動く、というほど単純な説明ではないが、本書は、これらの4つの基本構想に基づいて幕末~明治初期の政治を整理しており、私にとって政治的な動向がやや分かりにくかった時期に対して良い見通しを与えてくれた。

 

もう一冊は、 小島毅「靖国史観」(ちくま新書)。

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書 652) 靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書 652)

著者:小島 毅

販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

  本書も歴史学者の手によるものだが、とかく問題となりやすい靖国問題について、他の書物とは別の角度から、靖国神社とは元々な存在なのかを明らかにしている。具体的には、 

「国体」「英霊」「維新」 

という、靖国神社に関係する3つの語の意味を明らかにしながら、靖国神社がどういったものかを明らかにしている。新しく知ったことも多く、靖国神社について良い視点を提供してくれたように思う。(そういえば、本書でも触れている三土修平氏の靖国本(以前、大澤真幸氏が評価していた)は積読のままである。) 

これらについては書評を書く余裕がなかったのだが、良書と思ったので、記録としてここに載せておく。

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書評:改めて「すごい製造業」(中沢孝夫著、朝日新書)について

この本については、以前書評をこのブログで書き、それとほぼ同じものをAmazonのカスタマーレビューに書いた。あまりに安易に日本の製造業を礼賛するばかりの文章で、辟易して、少々怒りをこめて書いたのだが、さきほどAmazonのレビューをみたら、10人中このレビューが参考になった人は0人(!)ということが判明した。

 

まあ、上記のごとくで、割と粗雑に書いてしまった文章であるので、今にして思えば、参考になると思う人が少なくても仕方がないとは思うのだが、本書については他に2つのレビューが載っていて、それらがともに★5つをつけているのには、正直いって驚いている(しかも、これらレビューを参考にしたと評価した人ばかりである)。

 

それを引用させていただくと、一つ目は、

 
   

売れ行きが好評なようでうれしい。それだけ関心が高い主題を扱ったということだからだ。と同時に、製造業の中でリーダー的な立場にある企業の事例を散りばめて自社の取り組みに参考になると思えるから購入するのだろう。本書をどう生かすかは、読者の器量と努力にある。日本には「すごい製造業」がまだまだたくさんある。ただし、それらの企業が東アジアの企業と連携して国内の企業成果が上がっていることも忘れてはなるまい。      
日本の製造業のすごさを人材育成力にみる著者の視点は正しい。      
(中略)

   

『日本は没落する』とかいった本がベストセラーになり、カスタマーレビューも多く寄せられているような風潮は転換させる必要がある。

 

というもの。もう一つは、

 
   

製造業、とりわけ中小のものづくり企業は地味である。ソフト系、情報系の会社や一部のサービス業とは対照的だ。しかし、華やかな会社に就職すれば活躍できるとはかぎらない。まして、そこで働くことが幸せだという保証はない。本書は、地味だけれどもやりがいのある中小製造業の魅力を余すところなく伝えてくれる。      
ものづくりに関する本の多くは経営学者によって書かれたものである。それに対して本書は、現場を知り尽くした評論家であり学者でもある著者によって書かれたものであり、行間には著者の直感的な理解や深い洞察があふれている。

 

というもの。

 

これを読んで、再び頭を抱えてしまった。なぜこんなべた褒めの言葉を臆面もなく書けるのだろう?正直にいって、大変心配な気分になった。

 

評価の根拠については、以前の書評にはちゃんと書かなかったので、今回書いておこうと思う。

 

まず、これは前の書評でも書いたつもりだが、私は、本書に書かれているような、日本において多くの製造業の現場に強みがあることを否定するつもりはない(人材育成を含めて)。ただ、日本の製造業の現場の強さ(中小企業における強さを含む)については、何もこの本によらなくても既に知られていることであって、別に本書に高評価を与える理由にはならない。本書に書いてある例を知っていたわけではないが、これだけで本書に星5つを付けるほどのものとは思えなかった。

 

それよりも本書で非常に問題だと思うのは、一部の現場を取り上げるだけで、「日本はこんなすぐれた現場があるから大丈夫なんだ」という安直な楽観論を、具体的な根拠もなく本書全体を通じて語っていることである。 これは論理性が欠如しているだけでなく、現在の日本の問題を覆い隠そうとするものである。

 

まず、論理的にいえば、日本のある製造業の現場をみてこれは凄いというものがあったとする。しかし、日本には、これ以外に、すごくない製造業の現場もたくさんあるだろう(少なくとも論理的にはありうる)し、サービス業の業務もある。したがって、日本全体として現場がすごい、という命題は、本書から読み取ることは不可能である。また「現場が凄いこと=日本が大丈夫」という命題を理由もなしに説明されている。これでは、論理もへったくれもあったものではない。前の書評では「牽強付会」と書いたが、それはこのようなことを指している。「すごい製造業」という一部のミクロの事象をみて、大きな日本全体のマクロの事象の将来を語っているからだ。これは論理として致命的な欠落ある議論といわざるを得ない。大学教員がこのようなずさんな論理を展開してよいのだろうか?

 

また、現実に、日本の民間部門は少しも大丈夫だと安心できる状況にはない。現在の日本経済が直面している生産性の低さという、数字に裏付けられた現実を著者はどう考えているのだろうか。日本の生産性は他の先進諸国に比べて著しく低く低迷しており、特に、本書で扱っている製造業よりもサービス業の生産性が低い(先進国ではGDPの中でサービス業の比重が高まるのが通常であり、日本もその例外ではない)。「生産性が低い」ということは、経済成長率が低くなる、ということである。サービス業の比重が高まらざるをえない今、生産性の低い現状が問題でない訳はない。日本として深刻に考える時期にあるのだ。そうした時に、「製造業があるから日本の将来は大丈夫だ」という言説を聞かされてもまったくのピントはずれの議論にしか聞こえないだろう。著者のいう「すごい製造業」は日本に存在しているが、それは以前から存在しているのだが、それは問題の解決になっていないのである。劣った製造業の現場、サービス業の現場等がむしろ沢山あるはずで、そこには目をつむって、見栄えのよい所だけを語って日本全体について楽観できるという議論を振りまくというのは、明らかに偏っているし、読者に重要な問題を覆い隠すものではないか。

 

要するに、こうした状況にあって、本書のような根拠のない楽観論を振りまくのは、拠り所を求めたい人々を安心するだけにとどまり、むしろ問題を隠す働きをしてしまう。その意味で、大いに警戒すべき議論なのだ。

 

以上から、本書の評価が低いのはやむを得ない。すぐれた現場を紹介することに意味はないわけではないであろうが、本書はそこで終わるべきであった。また、そこにとどまらず、問題の多い現場、サービス業、そうした分野について目をつむらずに書くべきであった。しかし、著者は「日本は大丈夫」という、まったく安易で偏った楽観論を振りまいている。

 

著者は、大学教員である。大学教員たる者が、自分の「信念」ばかりをを語り、論理性の欠いた根拠のない日本楽観論を振りまくのはいかがなものか。また、本書に好意的なレビューをする人々は、安逸な気分に浸りたい人たちなのか。私は日本没落論を支持する者ではないが、日本楽観論も支持しない。著者やレビューワには猛省を求めたい気分である。

 

##Amazonの書評のほうも修正しました。

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Financial Times: One-Way Street?を読んで

別に意図したわけではないが、一昨日に続き、英国の記事から。今回はFinancial Timesの"One-way street?: As its companies expand abroad, Japan erects new barriers at home" と題された3月2日付の解説記事である。

 

実は、一昨日(3月5日)の外務省報道官の会見録をネットで見ると、次のようなことが書いてある。

 
   

(報道官)3日付の英字紙フィナンシャル・タイムズ紙に、あたかも日本が外国人投資家或いは外国投資を制限するような、忌避するような対応をとっているといった批判記事が掲載されました。皆様の中にも御覧になった方はおられると思います。ここにお持ちしましたけれども、非常にセンセーショナルな、日の丸を進入禁止のマークに準えて、かつ日本は新たな障壁を構築するという、非常にミスリーディングな見出しだと思います。日本政府として、やはり反論をしたいということで、この場で政府の考えを申し述べたいと思います。      
勿論、まずこの見出しが、全く日本の直接投資受け入れに対するオープンな姿勢を正確に伝えるものではないということを指摘したいと思います。また、この記事の中で、日本政府或いは日本全体の取組みを正当に報じていないということからも、極めてバランスを失した内容だと思っております。      
そう申し上げた上で、日本政府としては福田総理の強いリーダーシップの下、我が国の経済成長実現の為、対日投資などの市場開放努力を進めており、先般のダボス会議においても福田総理から対日投資を歓迎する旨のメッセージを発出したところです。政府は引き続き現在の対日直接投資倍増計画の達成、即ち 2006年の対日直接投資GDP比を2010年までに倍増させ、2010年には5%程度を達成するという目標を立てております。その為にも、対日投資促進の為に策定したプログラムを政府一丸となって着実に実施し、我が国の投資環境の一層の改善を進めていく考えです。      
この場で私は、日本政府がそうした投資環境の一層の改善、対日投資の更なる増加ということに対して明確なコミットメントを表明しているということを強調させて頂きたいと思います。

   

(問)フィナンシャル・タイムズに対して、直接的に何か申し入れたりはしないのですか。

   

(報道官)反論投稿することについても、ひとつのオプションとして念頭に置きつつ、現在検討中です。

 

ここで、外務報道官が言っている、「非常にセンセーショナルな、日の丸を進入禁止のマークに準えて、かつ日本は新たな障壁を構築するという、非常にミスリーディングな見出し」というのは、このFTの記事の冒頭にある、日の丸の中に、NO ENTRYと書かれた絵である。報道官(あるいは外務省首脳)の癇に障るのも無理はないと思うものの、むしろ、この図を描いたFTの(ブラック)ユーモアのセンスの方を感じる。

 

それはともかく、FTの記事はどのような内容かというと、簡単だが、次のようなものである。

 
   

・海外からの投資を阻害するような一連の動きのあとでの、北畑経産省事務次官の発言(注:「デイトレーダは浮気者、無責任、強欲」といった最近問題となった講演での発言)は、日本は海外投資を歓迎していないのではないかという疑念を強めた。

   

・日本は、しばしば保護主義と非難される(鎖国時代からの歴史を叙述)。しかし、東証上場企業の持分の28%が海外勢になった今、政治家、官僚、産業界の”鉄のトライアングル”は再び外資から日本を守ろうと決意したようにも見える。

   

・政府では、空港管理会社への外資規制設定の試み、外資による10%超の出資の届出義務を拡大(外為法)、Jパワー(電源開発)へのTCI出資比率増加の拒否の可能性など。

   

・企業でも、多くの企業がポイズンピルなど企業防衛策、株式持合いの増加、新日鉄のミタルへの防衛策など。

   

・これらは、日本への海外からの直接投資の比率を倍増しようとする政府の約束とは整合しない。

   

・確かに、以前に比べると外資は入っているし、実際、最も競争力のある日本企業の中で外資の比率は多い企業がある。しかし、日本では経営陣が会社にとって何がよいかを一番知っており、株主のいうことを聞くのは誤りという見方が強い残っている、とワカスギ氏はいう。

   

・最近、懸念・恐怖を引き起こしているのは、外国ファンド(たとえばスティールパートナーズやSWF)の登場。これらによる買収が恐れられている。三角合併の制度はできたが、ビジネスのエスタブリッシュメントのロビイングの後、これを使うのは難しくなった。

   

・官僚もビジネスリーダーも、公式には保護主義の増長を強く否定する。確かに、外国嫌いではないかもしれないが、外国人投資家や市場の力へのバックラッシュを反映したものであることは明らかである。

   

・もちろん、これらの動きに対する国内からの強い反対も存在する。しかし、今は、外資へのより大きな開放や市場資本主義の規律による成長よりも、古いシステムの安定に傾いているように見える。

   

・25年間日本で働いた経験を持つある米国政府の元職員は、「危険なのは、そのような偏狭さが成長に必要な日本の競争力を脅かすこと。多くの日本人は外界と隔絶して過ごしやすい温室にひきこもることのできた時代を求めているようだ。しかし、温室にも、日光と空気は必要だーたとえそれが国際競争の厳しい風を意味することになろうとも」

   

・過去、外国製品に市場を閉ざした事例(1980年代の牛肉輸入、欧州からのスキー輸入)があったが、その後市場を開放してきた。しかし、それでも日本市場は、貿易障壁によってではなく、諸外国と異なった基準があることによって、依然として外国製品にとって参入が難しい市場のままである。

 

このFTの記事には、確かに、ある種のバイアスがある。ライブドアや村上ファンドという国内のファンドへ多くの経営者たちが警戒したことに見られるように、多くの日本の経営者がおそれているのは、外国の資本だけでなく、国内の資本も含めたアウトサイダー、典型的には投資家に物をいうアクティブなファンドが資本市場を通じて経営に口を出すことであると思われる(問題となった北畑次官の発言もその一つ)。その意味で、「日本は外資嫌い」という問題の設定の仕方は、海外の読者の先入観に媚びているよいうに思われる。

 

しかし、それでも、これらファンドの主体は海外投資家であるし、また三角合併に関する消極的な姿勢を見ると、日本の産業界に外資への警戒が根強く残っていることは多かれ少なかれ間違いないように思う。

 

冒頭に掲げた外務省報道官の記事への反論(日本は海外投資にオープンであり、これを倍増しようとしている)がまったく十分な反論になっていないことは、FTの記事が、すでに政府が公にはそのような反論をしていることを既に盛り込んでいることして明らかである。

 

外務省は、おそらくは対外広報の観点から、そのまま放置しておくのはまずいと考えて、(少なくとも形式だけでも)反論しておく必要があると考えたのだと思う。実際、政府が海外投資の比率を倍増させようとしているのだから、海外投資に消極的だというイメージを海外に与えることはマイナスであり、それを打ち消す努力は示す必要がある。それは理解できる。

 

しかしながら、政府が実際に海外投資の比率を倍増させようと努力しているとしても、問題は、そうした総論的な取り組みの一方で、具体的に利害が直接に絡む各論(三角合併、空港運営会社の例を見よ)になると産業界、政界、官界に外資への警戒が現われることである(いわば、「総論賛成、各論反対」である)。それがこのFTの記事の言いたいことであるはずである。である以上、外務省報道官の反論は有効な反論になりえない。

 

日本のマクロ経済の大きな問題の一つとなっているのは、生産性の低さである(諸外国と比べて非常に低い現状)。生産性が低いということは、持てる資源を生産のために効率的に利用できていないということである。このことは、たとえば企業の利益率の低さにあらわれているし、サービス残業等に見られる過剰労働からも分かることである。日本のIT関係企業はその良い例であろう(参考)。昨日三菱電機が発表したように、過剰と言われた国内携帯電話事業メーカの中から、撤退がようやく起こりはじめていいるが、これが今頃になって行われ始めたところに問題の深刻さがある。こうなった一因に、コーポレートガバナンスが十分に働いていないことがあると考えるのは当然である。

 

この点で、海外をはじめとする外部の資本の力を借りるということは有効な手段の一つであろう(それは政府も海外からの投資受け入れを積極的に進めるべきだと言っている一つの要因であるはずである)。CNETに「海外機関投資家からみた日本企業のコーポレートガバナンス」という記事がのっているが、この点で、ここにあるような海外の機関投資家が日本についてどうおもっているかという見解は無視すべきではない。まずは、直接に利害に関係する産業界の抵抗感をどうするかであると思われる。ただ、長年の慣行を変えるものであるし、企業内で長年働いてきた経営者や管理職等にとっては自分の地位を危うくするものであり、なかなかすぐにこの抵抗感を解消はできないだろう。深刻な問題である。

 

その意味でいうと、(直接自分の利害に関係する程度は小さく)制度を決める地位にある政治家及び官僚の行動も重要である。直接投資倍増のための政府の取り組みはぜひ進めていただきたいが、しかし、一方で不安材料は、FTの記事にあるように事欠かない。昨日の日経新聞の「経済教室」でも、全国社外取締役ネットワーク代表理事の田村達也氏が、経済産業省を中心として行われた政府での買収防止策の指針の策定作業を行った「企業価値研究会」のメンバーが経営者的な立場の人間が中心となって構成される一方で、機関投資家(株主)を代表する人間が含まれていなかった、と政府の経営者ベッタリの姿勢を批判していた。こうした、現在の企業経営者に偏った(あるいは「媚びた」)、これまでの政府(政界、官界)の姿勢(消費者行政の観点からも批判されているが)は、大いに改める必要があろう。少なくとも、外資受け入れについて、外務省報道官が言っているようには、十分な努力がおこなわれていると言いがたいところがあるように思う。

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The Economist: Why Japan keeps failingを読んで

多少時間がたってしまったが、英エコノミスト誌(The Economist)の一つ前の号(2/23-29号)のカバーは"JAPAIN"であった(ただし、これは日本版(もしくはアジア版?)だけで、欧米版はカストロの引退がカバーであった)。もちろん、これは、Japanとpainを掛け合わせたもので、ラフにいうと、日本経済の停滞の原因を政治家に求めているものである。日本国内でも(多少)話題にはなったようである。Leaders(1ページ)ほか、記事としてBriefing: Japan's Pain, "Why Japan keep failing"とタイトルされた3ページのものが掲載されている。

 

既にどこかで日本語の要約や全訳が掲載されていそうだが、この3ページものの内容は、要するに、

 
   

・小泉政権下で市場志向の改革がおこなわれ改善しつつあるように見えたが、また最近経済が低落しつつあある。株価は下がり、経済も減速傾向。また、少子化、地域経済不振、多額の政府債務といった問題をかかえる。

   

・企業部門はまだよいが、活発に投資が行われているもののリターンは低い。また、輸出は好調だが、国内消費が低いまま。小泉改革で、低金利と低賃金を強調することで日本経済を過度に輸出に依存し外的ショックに脆弱にさせたのではないか。

   

・さらに、政治家や官僚の能力のなさが問題を引き起こした。たとえば、国交省不況。

   

・日本は経済成長を果たすために多くの経済改革が必要だ。しかし、改革は放棄されている。その責任は、がっかりするような能力やビジョンしか政治権力者層と憲法が生んだ混乱にある。

   

・責任は、まず第一に、安倍前首相。次に、福田首相、そして小沢党首。(それぞれにつき、いろいろ書かれているが、省略)

   

・ほとんどの人は、内部矛盾で破裂している二大政党、異なる政党が支配権を握ることを想定していなかった憲法、政治を国家運営のための有権者の選択の手段でなく、個人的(あるいは一族の)ビジネスとしてきた文化のせいだというだろう。

   

・選挙は、問題を解決しないかもしれないが、政党に自らの立ち位置を有権者に示すようにさせるだろう。

   

最後に、有権者も問題の責任の一端を負わなければならないだろう。

 

というもの。これを読んでの感想。

 

・日本経済停滞の大きな原因の一つとして、政治(家)の責任に焦点を当て、それを明確に論じた点で意義がある。(もちろん日本人の多くも気が付いていたことかもしれないが)。"the incompetence and unpredictability of politicians"とか、"Blame a political establishment of underwhelming talent and vision"とか、キツい言葉が並べられていて小気味よい。

 

・ただし、政治(家)の問題を論ずる記述のほとんどを、安倍、福田、小沢の三人の問題に関するものに割きすぎている。また、その内容も表面的なものばかり。これは、マスコミや政治関係者に面白いネタを提供する(実際、週刊誌でも記事にされている)が、逆にいうとそれに視線が集まり、それで話が終ってしまいかねない。むしろ、そのあとのわずか2つのパラグラフに書いてある以下の文章の方が重要である。

 
   

Most of all, perhaps, blame two parties bursting with internal contradictions, a consititution that never envisaged opposing parties controlling the Diet's two chambers, and a culture that treats politics as a personal, sometimes familiy, business, not a means of offering voters choices about how their country should be run. An election would not solve these problems, but it might be a least encourage parties to tell voters what they stand for.

   

Lastly, the voters must take some of the blame. Ten years ago, when The Economist lamented Japan's amazing ability to dissappoint, one shrewd parliamentarian wrote in to challenge that. The headline, he said, should have read, " The Japanese people's amazing inablity to be dissappointed." A general election would at least give them the chance to start holding their politicians to a higher standard.

 

このあたりを指摘するのはさすが(というより、これぐらいの指摘を国内の人間がちゃんとしておけ、と言いたい)だが、そこをもう少し深く突っ込んで書くべきではなかったか。その点で本記事は物足りない。

 

・また、日本経済に関しても、「改革か、しからずんば死か」的な、割と紋切り型の単純な論法にとどまっている。海外からの視点としてそういうのは分からないではないが、「改革reform」という言葉は、誰でも使う((それこそ反改革派でさえ自分たちは改革しているという)。問題は「改革」として何をどうすべきか、という点がおざなりにされていること。しかし、本記事はそこに触れていない。

 

・進めるべき改革の例として、海外からの投資環境の改善、関税引下げ、農業補助金の削減、自由貿易、外国企業への税制の改善、さまざまな企業補助金の廃止、フレキシブルな労働市場、財政規律、年金、保険、民営化等を挙げている。それらは(海外から見たビジネス環境を重視している傾向が強いが)おおむね頷けるものがあるが、これらの多くが、これまで十分に政治の重要課題として取り上げられていない(何もしていないわけではないのは承知しているが、政治における重要度が十分高いとは言えないし、議論も問題のポイントも必ずしもついていない)。それが問題。

 

・本記事は小泉にやや甘め。確かに小泉はある種の改革を妨げる「抵抗勢力」を押し切って改革を進めた政治手法には大きな評価点が与えられるが、政策の内容としては、比較的重要性の低い郵政改革ばかりに重点が置かれ、それが達成されるとすぐさま政権を投げてしまい、上で指摘した各種の改革に熱心だったとはいえない。というより、その重要さをおそらくは理解していなかったように思える。その意味では、小泉も、安倍ほか他の政治家と同じ穴の狢だったと言えるだろう。そもそも安倍を引き上げることにしたのは小泉であった。

 

・さらに、デフレを長引かせている中央銀行(日銀)の問題に本記事は一切ふれておらず、この点で不適切。

 

・なお、どうでもよいことだが、(以前同誌が見出しに使った)”Japan's amazing ablility to disappoint"というフレーズを何回も記事中で(形を少しづつ変えながら)使われている。この記事の署名がないので誰が書いたのか分からないが、よほど気に入った表現のようだ。つまりは、このフレーズが日本の姿を最も的確に表していると思っているようだ。困ったことに、住んでいるわれわれ日本人にとっては、少しもamazingではないのだ。

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ウグイスが今

啼いている。今日から3月。もう春か。

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書評「漢字を楽しむ」(阿辻哲次著、講談社現代新書)

漢字を楽しむ (講談社現代新書 1928) 漢字を楽しむ (講談社現代新書 1928)

著者:阿辻 哲次
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

書店に行って新書コーナにいったところ、たまたま平積みになっていたので、手にとって眺めたところ面白そうだったので、思わず買ってしまった本である。漢字の読み、書き、そして生成に関し、素朴ではあるが言われてみれば不思議な点について、漢字の専門家である著者が例を挙げながら説明している本である。

 

「漢字を読む」「漢字を書く」「漢字を作る」の三章構成であるが、一番おもしろかったのが第二章の「漢字を書く」。学校のテストで、別の漢字と間違えられる可能性がない場合でさえ、漢字の「ハネ」や「ハライ」が間違っている、あるいは筆順が違うなどの理由で誤答とされたり減点されたりする例があるし、この点で特に厳格な先生もいるようだ。しかし、著者はいう、「その先生は教育に「きびしい」のではなく、漢字に関する正確な知識がなく、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導できなから、単に教科書や辞書などに印刷されているとおりでないと、安心して「正解」とできないだけののことなのです」と。そして、ハネるハネないについて、「環」の下のところ(ハネると誤りにする先生がいる)を例にとり、清の康煕帝が命じて策定させた字書でも、戦前の日本の活字の見本でもハネがあったこと、戦後ハネないようになったのは「当用漢字字体表」でたまたまハネがなくそれが印刷字体になってしまったからに過ぎず、印刷と手書きは違っても構わないこと(政府の作った「常用漢字表」も容認)を明らかにしている。筆順も、慣習に過ぎず、文部省が昭和33年に一つの手引き(これと異なる筆順もOKと明記)として策定したものが、同様の著述がないために、いつの間にか絶対化されてしまったものにすぎないことを明らかにしている。要するに、漢字のハネや書順にうるさい教師たちは、自信が持てない自分の拠り所を「権威」に求めたに過ぎないわけだ。

 

このほか、漢字の中には、歴史的にみても、権力者のこじつけや気まぐれで作られたものがあること等、いろいろな「雑学」が楽しめる。この本で感じるのは、漢字というものは、一つのルールに従わなければならない堅苦しいものではなく、もっと柔軟に使ってよいものである、ということだ。タイトルが示すとおり、気楽に読める本となっているので、気が向いた時にパラパラと読んでみてもよいだろう。

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