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某対談

1か月ほど前に本ブログでアップした某講演(?)がきちんと対談の形で行われた。以下はその大雑把な(したがって正確性は保証しない)内容である。

   
   

グローバリゼーションが(国内の)格差を拡大しているとの見解があるが、もはや企業活動は国内で完結しなくなっており(逆に国際的な格差は縮まっている)、国内で再配分をするモティベーションはなくなっている。

      

日本では、かつては何が公共的なものかの線引きが自明であった(共通感覚があった)。その下で再配分が行われてきた。しかし、今やそれは自明でなくなり、失われた共通感覚をルールで埋め合わせようとしている。

   

日本では、かつて警察が関与しなかったようなところにまで警察が関与するようになってきている(国家の暴力の対応領域の拡大)。それに対応して、(それまで警察が利用してきた)ヤクザを排除するようになっている。

   

これは、米国も同じ。冷戦時代は、ソ連に対応するため、周辺国の非合法のゲリラ(例:コントラ、アルカイダ)を支援していたが、冷戦後不必要になって手を切ろうとした。

      

このような反近代的な「中間集団」があったとしても、ある種適合的になら擁護しても構わない、というのも近代主義の一種。

      

要は暴力のコントロール可能性。共同体的であろうが、制度的であろうが同じこと。しかし、最近は、これら中間集団をきれいにしようという特徴がある。

      

反近代的なものを国家が利用した歴史があるが、これを新自由主義的に断ち切ることを要求することは正当化してよいか、という問題がある。

      

理念よりは実態で判断すべきだろう。現在は、先の例でいえば、ゲリラの代わりに民間軍事企業によっている。セキュリティ産業も生まれている。

   

ルールでの埋め合わせだが、日本ではルール主義が実現したことがなく、ルールを求めると規律社会でなく管理社会になってしまう。日本ではフーコー主義的な生権力を擁護するしかない。    

   

最近の宗教的なものへの回帰をどう考えるか。ヨーロッパの近代主権国家では、国家と宗教が分離。しかし、アメリカはつねに例外的存在。主権国家が成立した欧州を逃れ信仰の自由を求めて新大陸にきた人々。そして、植民地(=領土)を持たず、経済システムで他国を支配し、覇権を握った(植民地は、領土と支配権の一致の思想に基づくものであり、主権国家的性格のあるものである)。このアメリカの派遣モデルが、脱植民地後のグローバリゼーションのモデルになっている。

   

アメリカでは、もともとpurisum(純粋主義)を志向する人々が集まってきたところ。宗教が細分化していった中でこれらの共生を図る(共和主義)ために政府が存在してきたと言える(市民宗教、アメリカ的な国家と宗教の二元論)。したがって、反領土的・反主権的であると同時に、理想に重きを置きがち。しかし、こうしたpurismを否定すると市民宗教も否定することになるし、その原理に基づいているようなグローバルなNPO活動も否定されることになる。したがって、アメリカのヘゲモニーで回るしかないところがある。

   

国家をなくせる可能性はない。この外へ出るようなラジカリズムはありえない。うまく管理するシステムを見つけるしかない。アメリカ的なものを前提としながらそれを改良していくしかない。

   

グローバル企業から見える風景が依然と違ってきた。かつては社会を温存するものが国家であった。今やグローバル企業からすれば、社会を温存する必要はないが、ルール違反を合法的に取り締まり、ルールを貫徹するために国家は存在してもらわないと困る。国家への要求がこれら企業と国内の下層の人々では異なるようになっている。

   

   功利主義の克服に向けて、ニューディール政策がすすめられたが、それが回り始めたときに、パーソンズは「社会化/内面化」という概念を打ち出した。(フーコー的な生権力によって)「社会化/内面化」が生み出す「内なる光」に従って個人が行動することによって社会に秩序が出来上がることになる。それは否定できないし、むしろ、それが円滑に動くようにソシャル・デザインをしていくべき(これは功利主義の延長線上にある)。

   

ホッブス的な暴力が暴力なくして実現できるようになった。暴力むき出しは良くないので、この点で規律訓練的なものをフーコーは頭から否定していない(フーコーが否定しているのは、規律権力的なものを使いながら自分たちの法の建前をかなぐり捨てていること)。その点で、パーソンズと近い。

   

コントロールしていこうという発想はアメリカルーツのものが多い。これを二元論的に是か非かをいうことに意味はなく、それを利用していくしかない。

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