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対談「昭和を点検する」(半藤一利、保阪正康)

本日午後、新宿紀伊国屋ホールで行われた保阪正康と半藤一利の両氏による対談「昭和を点検する」を聞きにいった。年配の人たちが多かったが、若手の姿も結構見えた。

以下では、ひとまずのメモとして、対談の概要を以下に記したい。

【司会(講談社)】今日は、次の5つのキーワードで昭和につきお話いただく。
 1 世界の大勢
 2 この際だから
 3 ウチはウチ
 4 それはお前の仕事だろう
 5 仕方なかった
最後に、去る9月4日亡くなった瀬島龍三氏に対する評価についてお話いただきたい。

1 「世界の大勢」について
【保阪】 挙げていただいた5つの言葉はみな受身の言葉である。昭和期に使われる「世界の大勢」はトリッキー。1931年の満州事変以降にわが国で使われる「世界の大勢」とは、自分たちにとって都合のよい「世界の大勢」。

【半藤】 英語にしにくい日本語として「せめて」「いっそ」「どうせ」の3つがあると思っている。これらは日本的心情を表すよく出てくる言葉。今日は、これとは別の5つの言葉が出されたが、なるほどわかりやすい。黒船以降、日本は確かに外からの圧迫によりアクションを起こしてきた。その意味で「世界の大勢」はわかりやすい。

2 「この際だから」について
【保阪】 私が思い出すのは南部仏印。日本側は、これで米国が大きな制裁することはないだろうと考えていた(日本との戦争を意味するから)。日本では政策決定集団の中で互いに共鳴しあい、その中で期待・願望といった都合のよいものだけになり、現実から遠ざかっていくという特徴を持っているが、南部仏印をめぐるやりとりを見ていくと、この特徴がよく出ている。

【半藤】 自分も同じく南部仏印を思い浮かべる。補足として述べると、米軍にとっては対ドイツが最重要で、日付変更線の向こうに艦隊を送ることは考えていなかったし、当時戦争準備もしていなかった。それらを日本海軍も知っていたはず。これで確信をもって「この際だから」と思ったのだろうと思う。
 また、ポイント・オブ・ノーリターンとなった三国同盟を結んだ時、それにもともと反対してい海軍がなぜ短い間にそれを了承したかといえば、これも「この際だから」であった。この際だから、三国同盟を求める陸軍に借りを作って予算を確保する(そうした条件をつけた)という目論見があった(宇垣纏「戦藻録」序文による)。三国同盟でどういう事態がおこるかは議論になっていなかった。

【司会】 軍の話ばかりになっているが、政党はどうか。たとえば統帥権干犯問題。

【保阪】 当時は、政党間の争い激しい時期。政友会が軍と組んだ。そのひとつが統帥権干犯問題。民政党叩きに「この際だから」と政争の道具にしたと思う。
 また、昭和16年11月15日の政府・大本営連絡会議で終戦の腹案が出たが、そこで論じられれていることはすべて願望でしかない(たとえば米国で厭戦思想が出てきて終戦になる)。これはひとつにはわれわれの文化。腹案はいかにも作文で軍事的リアリズムを感じない。こんなものをを平気で作っている指導者は何だったんだろうか。本当に軍主導体制だったのか。「この際だから」ということで作ったものに過ぎないのではないか。

3 「ウチはウチ」と4 「それはお前の仕事だろう」について
【保阪】 「ウチはウチ」という言葉から思ったのは、兵舎化した国家。国家総力戦体制とは、国家を兵舎にするということ。昭和10年代にそれが顕著になった。

【半藤】 自分が「ウチはウチ」という言葉から思いうかべるのは、国際連盟脱退がマスコミが盛んに煽り立てたものであったこと(これに抗したのは石橋湛山等ごく一部のみ)。最初政府内では国際連盟とうまくやっていこうという雰囲気のほうが強かった。

【保阪】 トラウトマン交渉の際に中国側から示されたような世界観が、日本の関係者には全くなかった。
 また、昭和16年の日米交渉の際、日本の外交暗号(マジック)はすでに解読されていたが、このとき日本側のすべての電報を読んでいた陸軍の石井秋穂が、11月に送られてきた電報(米ウォーカ郵政長官が野村大使に言った言葉が書かれていた)から暗号が解読されていることを直感した。しかし、「まあいいか自分の仕事ではない、外務省の仕事だ」と思って、言うのをやめた。

【半藤】 米海軍ではニミッツ提督はキング提督のいうことにすべて従った。指揮系統が厳しく守られていた。他方、日本ではそのようなことはなかった。永野軍令部長に対して、山本五十六は「(永野は)なんだ、居眠りばかりしている」と批判。俺は俺だ、という姿勢だった。陸軍でも、ノモンハンのとき、作戦部長は当初関東軍にすべて任せていた(俺の仕事でない)。一方で、関東軍は俺は俺だと勝手に戦線を拡大。統制がまともにあって軍隊が厳正な存在になるのに、日本軍は俺は俺、それはあいつの仕事だ、というのが実態だった。外務省も同じ。野村吉三郎は、外務大臣だったときに親独派を左遷したため、省内で総スカンをくらった。彼が駐米大使になったときに、外務省の人間は言うことを聞かなかった。

5 「仕方がなかった」について 
【保阪】 「仕方がなかった」という言葉はみんなが言った。2・26事件のときも、真崎甚三郎は「こうなっては仕方がないだろう、青年将校の意見を容れろ」と発言。このように、既成事実ができあがったら仕方がない、そこから始まる、という発想がみなにあった。
 また、東京裁判での被告たちの発言を読むと、みな自らの思想から自己正当化するのでなく、「仕方がなかった」という論法であった。いかにも日本的である。私たちは何を問われているのか、状況追随でしかないのではないのか。

6 瀬島龍三氏の評価について
【半藤】 彼の同僚の話を聞くと、彼の作戦計画は完璧であった(しかし、悪口を言う人は、加えて、これほど戦場で役立たないものはない、といった)。事務官僚としてはこれほどの人はいないという人は多い。
 自分は瀬島氏に何回かインタビューしたが、聞きたいことが3つ残った(氏は最後まで否定し、きちん話してくれなかった)。
(1)捷1~4号。台湾沖海戦の戦果は誤りだったことが判明にしたにもかかわらず、作戦を変更したままルソン島→レイテ島にした(なお、瀬島氏は戦場に派遣されることになったが、病気(悪口を言う人は都合悪くなると瀬島氏は病気になるという)となったという理由で、全く作戦内容を知らない別の参謀が代理で現地に派遣された)。
(2)瀬島は昭和19年末から20年2月まで偽名を使ってモスクワに行った。この後に、彼が親しかった岡田啓介、迫水久常が主唱してソ連を通じた和平交渉が始まった。交渉は4月の鈴木内閣で本格化。瀬島のモスクワ行きはソ連政府の感触を探りにいったのではないか。
(3)終戦直後のソ連ジャリコーワとの交渉の内容。瀬島は日本兵をシベリアで労役させるとの密約を結んだと疑われた(私個人は密約まではなかったと思っているが)。

【保阪】 私も同じような疑問を持っている。瀬島氏には2日間、のべ計8時間のインタビューした(細かい具体的な点ばかりを質問)が、氏は本質には答えず、瑣末なことばかりよく話した。典型的な軍官僚だった(逆に現場を知らない)。信用できないという印象を受けた。氏の発言をよくみると、本人が亡くなった後にその人のことを話している。
 彼が亡くなった際、マスコミからの問い合わせに対してほとんどコメントをしなかったのは、話すと彼に悪口になってしまうので、失礼になると思ったから。ただ、我々、そして次の世代が歴史として検証していかなければいけない。

【半藤】 本題とは関係のない話題だが、最近出版された卜部日記を読むと、昭和天皇は2月26日と8月6日にはかならず部屋で御慎みになっていたことが書かれている。これをどう考えるか、面白いと思う。

以上。

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