中島聡『おもてなしの経営学』(アスキー新書)について

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55) おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55)

著者:中島 聡
販売元:アスキー
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先日、海部美知『パラダイス鎖国』の書評を書いたので、先月の八重洲ブックセンターでの対談のもう一人の主である中島氏の本書を読んでみた。

 

いきなり書評を書こうとも思ったのだが、それよりもAmazonでのレビューがこの点で厳しいことが多く書かれているので、それをダシにして感想を書いてみたい。

 
   

(1)「著者のblogを愛読しているので、期待していたが、雑誌の記事の採録や対談の記録で、資源の再利用を見ている感じ。[星3つ]

 
   

(2) ブログを日ごろから読んでいたので予約までして楽しみにしていた本だが、271ページの本書の123ページ以降、すなわち半分以上のページ、が特別対談で占められているというなんとも期待を裏切られる作品。第一章「おもてなしの経営学」は、ほぼブログと同じ程度の情報量しかない。 [星1つ]

 

たしかに、気持ちは分からなくはないが、先月の対談でも中島氏本人が「海部さんの本ほど論理立ててまとめられていない」「書くのに苦労して、プログで書いたことと対談を入れてなんとか一冊の本になった」という趣旨のことを既に言われたので、読後に違和感や失望はなかった。

 

上の2つの意見には、アマゾンレビューでも投票が多い(しかも「参考になった」とするものが多数)のだが、これら2つの意見は、はっきりに言うと、blogを普段から読んでいる人が勝手な期待をしてそれが裏切られただけのことにすぎない。世の中には中島氏のブログLife is beautifulを読んでいない人はたくさんいるのだ。だからこそ本を出したということもあるだろう。世の中には対談だけを収めた本も数多くある。本書に対する正当な評価とはいえないだろう。

 
   

(2)(続き)経営にはおもてなしが重要という主張に対して、同意・反対できるだけの論理が展開されていないため、本として出版するレベルにまで昇華されてないように感じられた。ブログでは、その程度の内容でエントリーしてもいいだろうが、本として出版する以上、もうすこし踏み込んだ考察がほしかった。

 
   

(3) 同じようなことを見方を変えて書いていたりするのでときどき「あれ?前のページでも同じことを言っていたような」という気分になります。[星3つ]

 

これらの指摘には同意。ただ、これは先にも述べたように、書いた本人がよく分かっていること。むしろ、この問題は、編集者に責任がある。中島氏はブログは書いているけれどもプロの書き手とは言い難いのだから、編集者がもう少し時間をかけてきちんとサポートしてあげるべきだろう。アスキーの早く出版したい(しかも海部氏の『パラダイス鎖国』と合わせて)との意向が透けて見えるような気がする。

 

では、私はどう思ったかというと、上記の欠点はあるとはいえ、素直に面白いと思った。実は中島氏のことを失礼ながらそれほどよく知っていたわけではなく(ブログも去年の中ごろから読み始めたばかり)、本書を読んで、日本人にも、こうした人材がいたのかと今頃になって感心した。彼のブログはギークたちがよく読んでいるらしいが、分かるような気がする

 

確かに、本書では中島氏の言いたいことが整理されておらず、特に第2章はタイトルが「ITビジネス蘊蓄」(!)というふざけたものになっていることから分かるとおり、ただ彼の過去のブログのエントリーを並べただけなので、分かりにくい。むしろ、第3章の対談(特に古川亨氏との対談、梅田氏との対談)を読むと、彼が考えていることがよく分かるように思う(ひろゆきとの対談は、むしろひろゆきの方が主役という感じ)。対談という形式が、対談相手とのインタラクションの中で彼の言いたいことを分かるように引き出しているように思う。

 

もちろん、彼のいう「ユーザー・エクスペリエンス」=「おもてなし」の重要性にはうなずけるところが多い(1)(もっとも、私は、この言葉よりも、それと対比される「床屋の満足」というフレーズが気に入ってしまったが(2))。中島氏の「おもてなし」は、ものづくり寄席で聞いた阿部誠教授の話にもつながると思った。

 

(1) ただ、日本のシステム構築は、ユーザのニーズに合わせてカスタマイズしすぎることが逆に問題になっているようだから、「おもてなし」も時と場合によるということはいえるのかもしれない

 

(2) 既存の言葉で置き換えると、それぞれ「マーケット・イン」、それに対比される「プロダクト・アウト」といったところだろう。)

 

 

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”Obama>Clinton” 2題 (CNNから)

さきほどCNNを見ていて2つ面白かったこと。

(1) 米国での世論調査によると、

・黒人大統領でもOK ・・・・ 76%

・女性大統領でもOK ・・・・ 63%

とのこと。こちらに日本語でもありますね(これを読んで知ったが、黒人の方が白人よりも「黒人の大統領でOK」という答えが少ないのはちょっと驚き)。

(2) まだやっと話せるようになったばかりの小さな子供たちに、大統領候補である「ヒラリー」「オバマ」「マケイン」と言わせようとすると、子供はみな「オバマ」とは口に出していうけれども、「ヒラリー」「マケイン」とは言わない。「ヒラリー」「マケイン」といわせようとしても、黙ってしまったり、逆に「オバマ」としか言わなかったりする。これは親がオバマ支持であるなしに関係ないらしい。番組に出てきた研究者によると、子供にとってオバマ(Obama)の"b"とか"m”という子音は子供にとって基本的でまず覚えやすい音だからではないかとのこと。ただ「オバマ」「オバマ」を連呼する子供を見ていて思わず(笑)。

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書評:『幕臣たちの明治維新』(安藤優一郎著、講談社現代新書)

幕臣たちの明治維新 (講談社現代新書 1931) 幕臣たちの明治維新 (講談社現代新書 1931)

著者:安藤 優一郎

販売元:講談社
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本屋で気軽に手をとって思わず買ってしまった本。近代史の本にはどうしても手を出したくなってしまう。 

さて、本書は、明治政府成立後の徳川家家臣(幕臣)たちのその後を取り扱った本である。勝海舟、榎本武揚、渋沢栄一等の一部幕臣が明治治世下でも活躍したことは知られているが、大多数の旗本・御家人たちが明治以降どのような運命をたどったのか、一般に知っている人は少ないと思う(私もその一人)。そうした敗者の歴史を辿ったものとして興味深い本である。

明治政府の命で静岡に移った徳川家は家臣たちに、明治政府への出仕、自分で農業や商売を始めるという選択肢も与えたが、ほとんどの家臣は、静岡藩が財政逼迫で大幅なリストラが必要だったにもかかわらず無禄覚悟で静岡に移住する途を選び、結果として過酷な生活を強いられた。自分で商売等を始めた家臣もその多くは厳しい生活を送った。明治政府に出仕した者も人々から白眼視された、という。その他、幕臣たちは人材の宝庫で明治政府からのヘッドハントがあったこと、明治政府の中級以下の官僚の多くが旧幕臣だったこと、幕府のお膝元東京では反明治政府の裏返しとして西南戦争での西郷人気が高かったこと、そして明治22年に開催された東京開市(=家康江戸入城)300年祭は幕臣も集まったほか江戸を懐かしむ沢山の市民で大人気を博したこと等が語られている。

我々が知る薩長等の勝者の歴史と異なる、一般に知られない敗者たる幕臣の歴史、加えて当時の東京の人々の幕府への思慕を要領よく分かりやすく書いている。気軽に読みこなせるのは、さすがに講談社現代新書といったところだ。ただ、手軽さを意識したのだろうか、大まかな点だけが語られている感があり、敗者の歴史として読むには内容にやや物足りなさを覚えた。例えば、一般の旧幕臣たちが明治政府の治世で何を思って生きたのか、彼らの生の声をもう少し取り上げても良かったのではないか(本書の記述からある程度は想像可能だが)。また、本書で一部が取り上げられている山本政恒の自分史の記述も興味深く、これを中心に据えて書いても面白かったのではないかと思う。

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終身雇用制への支持86.1%、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」よりも「平等社会」に支持

いくつかの新聞にも記事が出ていたが、独立行政法人労働政策研究・研修機構「第5回勤労生活に関する調査」結果から(3月24日公表)。

 

1 日本型雇用慣行の評価

「終身雇用(1つの企業に定年まで勤める日本的な終身雇用)」と「組織との一体感(会社や職場への一体感を持つこと)」を支持する(「良いことだと思う」と「どちらかといえば良いことだと思う」の合計)割合は、それぞれ2001 年(76.1%)、2004 年(77.8%)に一度低下した後に再び上昇に転じ、2007年には9割弱(それぞれ86.1%、84.3%)となった。

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2 望ましいキャリア形成

最も望ましい職業キャリアとしては、「一企業キャリア(「1つの企業に長く勤め、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「1 つの企業に長く勤め、ある仕事の専門家になるコース」)」が1999 年から一貫して高く、2007 年は約5割(49.0%)となっている。2004 年と比較すると6.1 ポイントの上昇となっている。次いで、「複数企業キャリア(「いくつかの企業を経験して、だんだん管理的な地位になっていくコース」+「いくつかの企業を経験して、ある仕事の専門家になるコース」)」で2割強(24.6%)となっており、2004 年よりわずかに低下している。「独立自営キャリア(「最初は雇われて働き、後に独立して仕事をするコース」+「最初から独立して仕事をするコース」)」は、1999 年から下降傾向にあり2007 年には約1割(11.7%)となっている。

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(中略)

7 日本が目指すべき社会

これからの日本が目指すべき社会のあり方についてきいたところ、1999 年から2004 年までは「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が4割程度で、「貧富の差が少ない平等社会」を上回って推移していたが、2007 年には、これが逆転、「貧富の差が少ない平等社会」が大きく上昇(約13 ポイント上昇)した一方で、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」が大きく(約11 ポイント)低下している。

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ソース:労働政策研究・研修機構の調査結果(PDF)

 

この結果は、日本に住む人々の大多数は、海部さんの『パラダイス鎖国』の中で今後の方向として思い描く世界とは別の方向を指向しており、その傾向が更に強まっていることを示すようにも見える。

終身雇用への郷愁が強くなっていることはその一つだが、特に私にとって印象的だったのは、最後に挙げた「日本が目指すべき社会」で、これまでトップを占めてきた「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」を抜いて、「貧富の差が少ない平等社会」が最も大きな支持を集めるようになったことである。社会主義的指向といえばよいのか、あるいは「パラダイス鎖国」の強化を望んでいるといえばよいのか。リスク回避、安定志向、悪く言えば、「後ろ向き」である。そうしたものは不安定な経済社会環境を反映していると考えてもよいだろう。

ここでの問題は、こうした人々が嗜好する社会のあり方が、本当に日本経済全体の豊かさを、つまり、一人一人が豊かに暮らせる社会を、本当にもたらし得るか、ということである。確かに、かつての高度成長期からバブル期までは、終身雇用(といっても実際には一部の企業で実現したにすぎないのだが)のもとで経済成長が果たされた。しかし、日本を取り巻く状況はその時期とは異なっており、かつて存在した雇用システムと経済成長の間の「好循環」はもはや保証されなくなっている。この調査結果は、そのことを多くの人々が十分に気づいておらず、過去への郷愁にとらわれていることを示しているようにも見える。

かつてのような大きな成長が望めない以上、穏やかなインフレのもとでの安定的な成長と、その中での生産性の向上を果たしていくことが必要であり、その点では、適切なマクロ政策と、(たとえば、イノベーションを起こりやすくするなど、経済全体としての)生産性の向上を引き出すような仕組みが必要である。

この調査で示されている人々の選好は、マクロ経済政策の失敗による経済不振・デフレ化、その他政策が導いた不安定な経済環境がボディーブロー的に利いている結果ではないのかと思う。人々がこうしたメンタリティを持ってしまうことによって、より柔軟な社会システムの実現が一層困難になっているおそれもある。その意味で、これまでの政策(無策を含めて)の罪は重いのだが、同様の意味で、今後も、政府・日銀がとっていく政策は重要である。

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(続)「Jシリコンバレー特区」構想について

 

 

先日の"「Jシリコンバレー特区」構想について"というエントリーに対して、    
>じゃ、どうしたらいいかな?    
とのコメントをいただいた。

 

この問いに対しては以下の3つの可能性を考えた。   
(1)上で指摘した問題点に対応するために具体的に何をすればよいのか、という方法論に関する質問    
(2)Jシリコンバレー特区の設置は前提としつつ、どう修正すればよいのか。    
(3)Jシリコンバレー特区の設置は前提とせず、何をすればよいのか。

 

その後にさらにいただいたコメントを読む限り、1を求められているようではないが、2なのか3なのかよく分からないので両方について書きたい。

 

何はともあれ、将来の日本を考えて興味深い構想を真面目に提案してくれるのは良いことである。この点で、分裂君の元のエントリーは評価している。ただ、構想を思いつく以上に、それを磨いていくことは重要なことである。問題点があれば建設的にそれを指摘することは、更に良い構想に育てていくために有益だと考える。先日のエントリーはそのような趣旨で書いたものである。「批判だけなら誰でもできる」というが、建設的な批判は必ずしも誰でもできるとは限らない。もちろん、先日のエントリーがどれほど建設的で有益だったといえるかどうか自信はないけれども。

 

そうした趣旨なので、まずはできるだけJシリコンバレー特区構想を生かす形での修正を考えてみる。実は、この構想の目的を税収確保と書いているが、税金は社会として厚生を高める手段を講ずるために必要なのであって、税収自体を目的とするのは本末転倒ではないかと思われる。むしろ、「世界的ベンチャー企業をどんどん生み出してもらう」というような文章もあるので、イノベーションベース型経済を日本国内に生み、これを通じて経済的な豊かさを導くとことと考えるほうがよい。いずれにせよ、特区の狙いは、そのために高度な能力を持った人材が集まった知識クラスターを生成し、それを梃子に日本国内全体の経済活動に結びつける(ちなみに、これに伴い税収も上がる)、といったところであろう。

 

しかし、このような高度な人材が集まってくる最も大きな理由は、まさに触発されるような高度な人材がそこに大勢いて、そこにイノベーション文化があることなのではないだろうか。(前回も同趣旨を書いたつもりであるが)分裂君の構想は、要するに高度な能力をもった人材にとって住みやすい物的あるいは金銭的な環境を整備することが中心に語られているが、これは人材が集まる必要条件でありえても十分条件ではない。しかもこうした環境面は他の国もおそらくは容易に用意できるものだ。

 

したがって、発想としてはむしろ逆に、まずは、高度な人材にとって非常に興味がわき、彼らが集まって協働したり、情報や意見を交換し合ったりするようなプロジェクトが先に必要ではないだろうか(分裂君は「Jシリコンバレー大学を設立して世界中の優秀な教授や大学講師をヘッドハントしてきて集める」「英語圏の一流大学の分校をこの特区に誘致する」などと書いてあるが、それをどうやって実現するかことが大問題であるはずである。簡単にホイホイと日本に来てくれると思わないほうがよい)。そうした世界から人が集まるようなプロジェクトとして、まず日本こそがその場所として相応しいようなものを核にしていくことが考える順番として先であるはずである。そして更に日本における経済活動全体にどのようにつなげていくかのリンク等を考えていくべきである。

 

残念ながら、そうようなプロジェクトとしてどのようなものが考えられるのか、私にはわからない。Jシリコンバレー構想を推進する場合、この点を構想の提案者がよく検討してみるべきだと思う。

 

ただ、このような特区が上手くいく可能性は否定しないものの、この特区構想を私個人としては買わない。それは、こうしたプロジェクトについては、政府すら確信をもってこれが成功すると断言できないはずだからである。どのような開発プロジェクトであっても人間が先験的に成否を判断することはできない、ということもあるし、政府と民間の間の情報の非対称性(政府の失敗の一つとしての)もある。本家シリコンバレーが成功したのも、政府の計画によってではなく、自生的に人々が集まったからであろう。上で述べたように環境整備を先に考えずにプロジェクトを核に考えて構想を進めたとしても、巨額の税金等の投資が必要と考えられる本特区構想が成功する保証はない。すなわち、大きな損失を被る可能性は大きいのである(そのような先例もある)。政府において責任のある立場の人間であれば、この構想を進めることはギャンブルであり、消極的に対応すべきことであると思う。

 

むしろ、もし投資をするのであれば、別のもの、例えば、日本人の人的資本に投資するのが一つのとるべき方法であると思う。その一つとしては日本人の語学能力工場があると思う。世界の高度な人材と交流する上で、日本人の語学能力の低さは知識の吸収等の面で大きな障害になっているように思われる。このことは日本の生産性にも影響しうる。こうした点に投資してもよいのではないか。

 

 

 

(追記) ここまで書いたところで、bewaad氏が分裂君のエントリーに対してコメントをしていること(「日本はレッドオーシャンに浮かぶ島国となるべきか?」)を発見した。私が先日言ったと類似しており、基本的にその趣旨には賛成である(もっとも氏の方のエントリーの方が先であった)。ただし、結論として、「まずはデフレを脱却すること」を主張しているのは、ワンパターンであるだけでなく、少々分裂君の問題意識からややずれているようにも思われた。デフレ脱却の重要性については、私もサイトのバナーから分かるとおり異論はない。しかし、ここでの分裂君の構想は、「目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。」と書いてあるように、長期的なものであり生産性をあげるためのもののように思われる。デフレ脱却という当面の課題(もちろん継続的にも必要だが)とは多少視点が異なっているのではないか。

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書評:海部美知『パラダイス鎖国』(アスキー新書)

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54) パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54) (アスキー新書 54)

著者:海部 美知
販売元:アスキー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本書については、先日このブログでまとめを書いたところだが、それに対する自分の考えを整理するに時間がかかってしまった。言い足りないことも多々あるだが、ひとまずの整理はできたので、以下に記してみたい

 

1.「パラダイス鎖国」というベクトル

  「パラダイス鎖国」とは、経済の実体を示すだけではなくて、内向きにこもって安住していたいという心理的な傾向も示すような響きのある言葉である。著者が意識しているかどうか分からないが、この言葉には、日本経済とか、企業活動とか、あるいは個人の消費活動とかいった「実体的なもの」に関するものと、人々の意識や心理に関するものの2種類が含意されていて、1980年代やそれ以前と比較した時の、現在の日本の経済の実体と心理の「方向性」あるいは「ベクトル」をうまく表現しているように思われた。 

確かに、絶対水準で1980年代と比べると、実体面では、明らかに日本市場の対外開放度や企業のグローバル化度は高いであろう。日々の生活においても、外国人の姿(欧米人だけでなくアジアからの人々、それ以外の地域の人々)は当たり前のように身の回りで見られ、心理的な抵抗感や偏見も少なくなっているように思われる。しかし、「ベクトル」という点からすれば、かつてのように明らかな開国へ向かっていた方向とは異なり、できれば内に閉じこもうという傾向が目立つようになっている。本書の第一章で書かれているいくつかの事例はまさにそのようなものだが、このほかにも、例えば、先日のFTの記事について書いたように、日本の企業社会や政府は、外資を含めヨソモノを相変わらず受け容れることに相変わらず消極的な傾向が強いことをあげることができる。近年、マスコミやネットで見られる日本に閉じこもろうとするような退行的な言論も別の一例としてあげることができるかもしれない。こうした日本で広く見られる実体的な事象、そしてそれらに共通する心理的傾向を、「パラダイス鎖国」という言葉で適格に表現しているのが著者の秀逸なところである。私が「パラダイス鎖国」というフレーズに共感してしまうのは、こうした1980年代までの日本で感じられた「ベクトル」と、現在の日本で感じられる「ベクトル」との間にある明らかな相違を実感するからだと思う。 

 

2.議論の混乱 

ただ、こうした「パラダイス鎖国」状態がなぜ克服され、「ゆるやかな開国」に向けて進むべきなのか、という点についての本書の説明には、どうも説得力があまり感じられない。もう少し具体的にいうと、パラダイス鎖国について語った第1章、第2章と、多様性のある社会へ進むことを問いた第3章、第4章との間には、齟齬が感じられ、すっきりつながってこないのである。なぜなら、第1章、第2章では国を開くか閉ざすかという問題が主に述べられているのに対して、第3章、第4章で語られているのは、むしろ多様性をもった社会で試行錯誤を繰り返していくかどうか、という点だからである。わかりやすく言えば、著者が本書の後半で主張する多様な価値観をもった人々がいろいろと試行錯誤を繰り返していってイノベーションを生み出していくような社会は、海外との関係が一切なく、国内だけでもを作ることは十分に考えられるからである。無論、多様な価値観を持った人々には海外の人間も含まれうるし、おそらくその方が多様性が高まり著者は望ましいと考えるだろうと思うが、海外に開かれることは第3章や第4章で述べられる著者の主張においては絶対的な必要条件ではないように読める。 

こうなってしまったのには、一つには、著者が「海外に出るか/国内に留まるか」というモノサシだけで現状の問題を語ろうとしまったからではないかと思う。確かに、この尺度で見た内向きの傾向というのは今の日本の一つの傾向を端的に表している(その意味では「鎖国」という言葉は適切な言葉である)。しかし、著者が本書の後半で述べる主張からすれば、前半では文字通りの「鎖国」状態だけではなく、「居心地の良い今の環境、自分がよく知り慣れ親しんでいるものに安住したい」「新しいものを危険を冒して取りに行くよりも、既得のものを守ろう」という「守り」の心理や行動、さらに、それに対する批判に対して、むしろ「現在の居心地のよい環境や自分たちの慣れ親しんだものを積極的に肯定しよう、自分たちの良い面を見よう」という「反動」の心理や行動を、現在の日本の問題とすべきであったように思う。それほど「パラダイス鎖国」というフレーズはインパクトが強い表現なのだろうが、逆に著者自身がその言葉(特に「鎖国」の部分)に引きずられて議論がゆがめられてしまった感じだ。 

こうした歪みがあるせいなのだろうか、特に第2章は何がいいたいのかよく分からなくなっているように思われる。例えば、著者は「パラダイス鎖国」現象の本当の問題として、「海外におけるジャパン・ブランドの低下」「日本の社会の変化が遅く、外界の変化についていけなくなっていること(議論の分かれない部分にだけエネルギーを集中)」 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」の3点であるが、よく考えると、これらがどうして問題なのかがはっきりしない。 

       
  • 「ジャパン・ブランド」がどうして重要なのだろうか。確かに、海外で「ブランド」を確立していれば海外で売れるとは思うが、それは一部の輸出産業(特に大衆消費財)についていえることであり、必須の条件とはいえないのではないだろうかまた、これが個々の企業だけではなく、「内需中心」の日本経済全体、あるいは日本の個々人にとってどのような意味で重要なのかが分からない。個々の企業の製品のプランドを「ジャパン」という国籍と結び付けている点も安易に思える。
  •    
  • 「パラダイス鎖国」という言葉が「外界には関心を持っていなので、特に対応しなくてよいだろう」という意識のことを指すのだとしたら、「変化が遅くて外界に対応できていないこと」自体はトートロジーに近いし、そもそも日本が「変化が遅くて外界に対応できない」というのは昔から言われていたことのように思う。むしろ、このことがどのような意味で問題なのか、すなわち、外界の変化になぜ迅速に対応しなければならないのか、という点をもっと述べるべきであっただろう。その際には、この点が誰(何)にとって重要なのかという説明も必要である。
  •    
  • 「海外への自然なあこがれを日本人のインセンティブとすることができなくなっていること」という点も、かつてとの比較で現在日本が「パラダイス鎖国」になったことの説明の一つになっているに過ぎず、これが、誰(何)にとってどんな問題なのかが語られていないように思う。著者の考え方は、海外へのあこがれが日本人の労働インセンティブにかつてはつながった、そして海外へのあこがれの喪失が日本人の労働インセンティブの喪失につながっている、という議論に私には読めたが、確かにそういう関係は一部にはあるだろうとは思うものの、海外へのあこがれで人々の労働インセンティブの多くを説明するのはかなりバランスを欠いた議論のように思える。 

こうして見ていくと、筆者の議論にはある種の思い込みや偏りがあってそれが混乱を生んでいるところがあると思う。一つは、海外への憧れ(人々のインセンティブ)→輸出(海外で売れること)→日本製というブランドの確立→経済発展/国際競争力(?)というような図式を想定していると思われることである。一部にはそうした関係もあることは否定しないが、海外での日本企業の活動自体を過剰に重視していて、これですべて説明するのは経済学的に言って無理がある。日本のように内需中心の大国では、国内での経済活動の方を問題とする考え方の方が真っ当である。 

また、著者の経歴からするとやむをえない気もするが、どうしても海外で製品を売るような産業、特に携帯電話等の電機産業に偏りすぎている印象がある(あくまでも憶測だが、本書やブログの読者にも多少の偏りはあるのではないか)。上で述べたとおり、国内中心の産業(例えばサービス産業)はどうなのか。また、海外での売り上げの大きい産業といっても、電機メーカのほかに、自動車メーカはもちろん、多少地味だが素材メーカ等、世界的シェアが高い企業は日本にかなり存在する。むしろ、日本の電機業界は、モジュール化の進行の中で比較優位を失っている点もあるので、これだけをもって、現状の日本全体の問題点を語るのは十分とは言えないだろう。 

さらに、本書全体を通じてそうなのだが、日本の何について語っているのか、という点もごっちゃになっている印象がある。つまり、日本社会を構成するひとりひとりの個人(=労働者/消費者)のことか、日本をベースとする企業のことか(なお、本書で語られているのは一部の産業のみ)、それとも日本全体(マクロ経済、社会全体、あるいは国家)のことか、いずれもあまり区別されてないで論じられているように思う。しかし、これらは相互に密接に関連しているものの、これらがすべて同じ方向を向いているはずはないし、いつも同じ利害を共有しているはずもない。多様性のある社会を望む著者の主張からすれば、むしろそれらを明確に区別していくことが必要と思うのだが。 

特に第2章の議論には、他にも問題とすべき点が多いように思う(特に経済学的な視点からすると)。いちいち噛み付ける気力体力能力もないが、一つだけ例を挙げれば、「国際競争力」のランキングを使っていることである。これはいろいろと問題が多く(詳細は省くが、例えば飯田泰之『ダメな議論』(ちくま新書)第5章参照)、これを使って議論するのは不適切と思われる。この第2章に限らず、全体を通しても、議論の組み立てという点でいえば、まだまだ課題が多そうだいというのが本書を読んでの感想である。

 

3.現在の日本の何を問題と考えるべきか 

では、著者が本書の後半で述べる主張の観点から言えば、今の日本の何が問題なのか。現在の日本での様々な現象を考えるに、私は、日本が成熟した先進国となった今、様々な持てる「資源」(金融資産、物的資産、人的資本、さらには技術といったもの)を有効活用することが必要になっているにもかかわらず、それら資源を有効に活用できていないし、また有効に活用すべき術を理解していないことが一番大きいと思う。 

その一つの例は、第4章で述べられている雇用である。本書で問題とされているように、終身雇用的な慣行には利点もあるのだが、必要なところに必要な人材を配分することを難しくするという欠点もある。市場原理は以前よりも導入されており、終身雇用的な雇用慣行もかつての力は失われつつあるが、しかし今だ強固に主要企業のコア部分で継続しており、現状では、人材の有効活用という点では有効に機能していない。 

また、著者のブログで最近述べられている「成長」の話題も、結局、日本企業は持っている資源の使い方が基本的に下手であることを示しているように思う。極端に言っててしまえば、日本企業は、「できるだけ効率的にお金を儲ける」という原理に忠実でなく、手間をかけずに儲けるために知恵を絞ることをサボっているのだ、と私は考えている。 

もはやかつてのように放置していても自然と高度成長が進むような状況は望めず、資源(資産、人的資本など)が限られてきているという環境変化を念頭に置くならば、日本としては、いかにして、この限られた資源を有効に活用していくかという「術」に頭を働かすべきである。今までのようなひたすら一点にむかってひたすら頑張る(こういった姿勢がなぜか日本では美徳とされるのだが)という戦術(著者の言葉でいえば「果てしなき生産性向上戦略」)は、かつては成功したが、それを今なお皆がこぞって続けるのは能がない。まるで、日露戦争で成功した戦術を太平洋戦争でも使い続けた旧軍みたいなものである。著者が本書で主張する国内、既存の組織の資源ばかりに頼らず、多様性を増大させ、「試行錯誤戦略」も採用していくことは投資戦略としても妥当だし、またそうした途を模索していくべきであろう。そうした意味で、著者が本書の後半で述べている方向性には同意できる。「プチ変人」を含めた多様な人材を許容していくこと、気軽に転職できるようになったり外部の人材を登用できるようになったりすること、時代に合わなくなった仕組みに固執せず新たなシステムに向かうことなどは、確かに有意義であろう。

 

4. 多様性のある社会は実現するか 

しかし、目指すべき方向性があるとしても、それを実現することは別の話である。例えば、著者のいう雇用の流動化についても、かねてより主張する人は多いが、なかなか実現しない。新卒の人間にまで強い終身雇用願望が存在している現状がある。実際、雇用流動化を進めることには中立的な立場の人からも否定的な見解が示されることもある。 

著者の主張するゆるやかな開国、多様性のある社会、あるいは厳しいぬるま湯などをどのように実現するか。どのように日本をフルモデルチェンジしていくのか。ここが大きな課題である。そこは著者の考えを知りたかったところだが、残念ながら、本書はそこには触れていない。どちらかというと、こうしたものをつくりたいという願望を描いたラフな企画書・スケッチに留まっており、その実現性まで考慮したプランに至っていない。その点に本書への物足りなさをを感じたのは事実である。ただ、これが大変難しい課題であるのも事実であり、私もここで論じる余裕はない。 

しかし、それでも、「パラサイト鎖国」論を通じて、現状に感じている閉塞感を打ち破りたいと感じている数多くの個人に、それを解消する未来像を分かりやすく示している点は大いに評価できると思う。心理的な閉塞感の解消を期待させる本書には、共鳴する一般の読者は多いだろうと推測する。その意味では、新書版という手軽な媒体を通じて、日本に住む個々人の意識を徐々に変えていき、それを将来の変革へつなげていく可能性を開いたことにこそ、本書の意義があるのかもしれない。

* 著者は、ブログで「 ち なみに、読者の皆さんへのお願いです。本の感想は、ぜひ、mixiとかのクローズドな媒体だけでなく、アマゾンの書評にも書き込んでください!」と書かれ ているが、とてもAmazonのレビュー(800字)には入りきらないので、ひとまずこのブログに置いておくことにする。Amazonには別途簡潔なバージョンを書ければよいとは思っているが、本書の販売促進からいうと迷惑な書評になってしまうかも。

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「Jシリコンバレー特区」構想について

シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法 - 分裂勘違い君劇場

   
   

東京から直通電車で20~30分くらいのところに、経済特区を作る。仮にJシリコンバレー特区と呼ぶことにする。

    

この特区では、英語が公用語。役所、医療施設、学校、レストラン、スーパー、電車、交通標識など、あらゆるものが英語で運用される。この特区内の企業に年収500万円以上で採用された外国人には、この特区内だけで働けるワーキングビザが発行される。当面は、インド、中国、西欧、北米、旧共産圏などの高度知識労働者をこの都市に集めることを目指す。目標として、50年かけて世界中から1000万人の高度知識労働者をこの都市に集めることを狙う。彼らに、世界的ベンチャー企業をどんどん生みだしてもらう。・・・・

   

読んだ第一印象は、「いかにも、政治家や官僚やタレント系の学者、コンサルタントなどが考えそうなこと」というもの。シリコンバレーにならって、クラスターを作ろうという構想はこれまでもたくさんあったが、実際に上手くいったものはあまりないのが実状。このJシリコンバレー特区構想は、規模的にもより大きく、海外によりオープンにするなど、大胆なものとなっているのだが、発想としては、そういったものの延長線上にある、「ハコモノ」中心、受け入れ側の視点中心の思いつきに思え、これだけでは、あまり上手くいきそうにないなあ、という感じがする。決してネガティブに捉えたくはないだが、ちょっと考えただけでもいくつか課題が思い浮かんでしまう。

   

第一に、受け入れる日本側の都合ばかりで考えられていて、海外から来る人々にとってのこのJシリコンバレー地区で活動しようというインセンティブが乏しいのではないか、という点である。確かに、英語とか、交流スペースとか、税制とか、インフラとか、安全とか、生活支援サービスとか、あったらいいものばかりであるが、しかし、それらがあるからといって、高度知識労働者がわざわざ日本に来たいと思うだろうか。どこの国、どこの地域でも、高度知識労働者は集めたいはずで、そうした国や地域との獲得競争になって勝てる勝算が十分にあるのかどうか。EUだって、韓国だって、中国だって、インドだって、全力で取り組んでくる可能性も考えないといけないし、現在において、言葉や市場規模、外資・外国人受け入れ環境等、日本はスタートラインとして不利な立場にある。そもそも今あるシリコンバレーよりも日本のJシリコンパレーが魅力的にみえるほど強烈な誘因は何かあるのだろうか。カネや環境ばかりが問題じゃないだろうし。東京や日本の優良顧客って他地域と比較してそんなに魅力的なものなのだろうか。

   

第二に、第一の点とも関連するが、書かれているような「ハコモノ」(かならずしも物理的なハコモノとは限らないが、目に見えやすいもの、という意味)だけでなく、海外からきた「上客」を満足させるだけの、運営のノウハウ、技術が不可欠である。しかし、そうしたものが日本にあるのか、またそうしたものを短期間で整備できるのか、正直疑問。

   

第三は、ヒト、モノ、カネ、土地。どれくらいの規模のものを想定しているのか分からないが、もし本格的に意味のあるものを現実のものとするのには、大変なカネがかかるし、また日本にいる英語+αのできる人材、土地を相当に集めて投入しないといけないと思う。これには大変な費用がかかるのではないか。東京から20-30分程度の場所だと、たくさんの住民を立ち退かせないといけないかもしれない。また、こうした直接的な費用だけでなく、文化的摩擦など、海外からの人間が流入することによる様々な間接的なコストもある。

   

第四に、これら費用を正当化するだけの便益が本当にあるのか。書かれていないのでよくわからない。

   

第五に、こんなに費用もかかる構想について、おそらく直接裨益しない大多数の日本国民を説得できるのかどうか。

   

全体として言えば、こうした発想を提示するのは良いことだと思うけれども、書かれたものだけを見れば、まだ、受け入れる側のバラ色の構想(というか願望)ばかりが前面に出ている段階にみえる。冷徹に損得勘定した結果として出てきたわけではないだろう。まあ、私もあまり欠点ばかりあげつらうのは好きではないし、これを書いた御本人もこうした欠点はあることは先刻承知の上でひとまずの構想を書いて出してみたのだろうから、ひとまずここは課題の指摘ということで、続編を期待。成功のためには、想像力とともに、人々のインセンティブ等を考えた精巧なソシャル・デザイン、メカニズム・デザインが非常に重要だと思う。

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メモ:英エコノミスト誌 Grossly distorted picture

英Economist誌には、Economics Focusという経済学に関する1ページのコーナーが毎号も受けられている。先週号に以下の記事が載っていたのを今日になって知った。このブログにポイントを載せようとでも思ったが、すでにいくつか日本語のサイトで取り上げられているので、以下、メモ程度にて。

15日付の英誌エコノミスト最新号は、コラム「エコノミクス・フォーカス」欄で、 ここ数年は日本がゼロ成長、米国は比較的高成長だったとのイメージが定着しているが、 1人当たり実質GDP(国内総生産)で見ると、日本が米国を上回り、先進7カ国中でも 英国に次いで2位の伸び率だったと伝えた。

同誌によると、2007年までの過去5年間の年間平均実質GDP伸び率は、米国が2.9%、日本が2.1%で、米国が大きく上回っている。ところが、 平均的な生活水準のおよその目安である1人当たりGDPで見ると、日本が2.1%、 米国は1.9%と、伸び率が逆転する。 同誌は、1人当たりGDPが経済状態の最良の尺度とすれば、リセッション(景気後退)の標準的な定義(四半期ベースで2期連続のマイナス成長)にも欠陥がありそうだと指摘した。例えば、日本の場合、成長率がゼロでも、人口が減少しているのだから、 1人当たりの生活水準はそれだけ豊かになっている。 これに対し米国では、昨年第4四半期のGDP伸び率が年率で0.6%となったが、 1人当たりの実質所得は0.4%減少、リセッション入りしたとみられる。
   同誌は「日本政府が1人当たり所得の伸びをもっと強調していれば、消費者も元気になり、支出を増やしていただろう」とし、「そうなれば日本のGDPの伸びももっと力強くなっていたはずだ」と結んでいる。
http://www.zakzak.co.jp/top/2008_03/t2008031709_all.html
(2ch経由。ちなみにこのスレッドでのコメントはピントはずれのものばかり。)

原文はhttp://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=10852462

一人当たりGDPは豊かさの指標であり、その成長率を見るのは当然のこと。しかし、そのような当たり前のことは実はそれほど当たり前に行われていなかったのが実態なのだろうか。市場全体を相手にする企業等にとっては、一人当たりのGDP成長率よりもGDPそのものの成長率の方が重要であろうから、むしろそうした企業等のサイドの立場でGDPという指標が見られているのが一般的ということなのだろうか。

日本がG7中で第2位というのは確かに意外ではあるが、このことは少子化の議論との関係で興味深い。少子化が問題だとする一般的に広まっている見解に対しては、人口減少自体は問題ではないとの見解がある(例えば、大和総研原田泰氏)。今回のエコノミスト誌が示した数字もこうした視点から議論してみると面白いだろう。

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自民党国会議員のリーダー選定能力の衰退

福田内閣が提示した田波氏(国際協力銀行総裁)が野党多数の参議院で同意が得られなかったことによって、日銀総裁は明日から空席となった(白川副総裁が代行)。空白になったことを嘆く見解がマスコミに多数出ているが、ここまで来たのは福田総理の責任が最も大きいということは認識しておく必要がある。

民主党に問題があるのはほとんどの人は否定はしないだろう。しかし、民主党が財金分離を主張し武藤氏を拒否した以上、元財務事務次官である田波氏を提示しても、立場上、民主党は拒否せざるを得ないのはわかりきった話。田波氏を立てて断られたからといって、民主党を日銀総裁空席の主犯にすることはできない。故小渕総理は民主党の提唱する金融再生法案を丸呑みすることによって金融国会を乗り切ったのとは対照的である。総理大臣としての指導力がないといわれても仕方がない。

自民党の伊吹文明幹事長は十七日の記者会見で、各種世論調査で福田内閣の支持率の低落傾向に歯止めがかからないことについて、「不支持の大きな原因は多分、指導力がないということではないか」と述べ、国民が首相の指導力に疑念を抱いているとの見方を示した。

伊吹氏は参院で野党が多数を占めるねじれ国会の影響で日銀総裁人事が難航していることなどを念頭に、「参院で過半数に達していないので、円滑な政権運営ができない。国民の目から見ると、モタモタしている。今のような参院の状況では、誰がやってもそのように映る」と指摘した。(東京新聞2008年3月18日 朝刊)

しかし、指導力のない人物を、昨年の党総裁選で圧倒的に支持したのは誰であったのか。自民党の国会議員たちである。そうした指導者としての能力のない人間を二代続けて総理総裁として担ぎ出した彼ら自民党国会議員たちに大きな問題があることは十分認識しておくべきであろう。その前の総理、郵政解散で自民党を大勝に導いた小泉氏は、2001年に一般党員の投票で圧倒的勝利を得たので総理総裁になったのであり、その際国会議員の多数は敗北した橋本氏を当初支持していたのではなかったか。さらにその前の、不評を買うばかりだった森氏は、小渕総理の突然の死後、当時の自民党幹部の談合で決まった総理総裁であった。

こうして見ると、もはや今の自民党の国会議員たちに自分たちのリーダを決める能力はない、といわざるをえない。国民の負託にこたえるリーダーを選ぶ力はないということである。そうした人々に引き続き政権を託してよいのかという疑問を呈する声が出ても不思議ではあるまい。

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ケインズ"...In the long run we are all dead..."の部分の和訳

Paul Krugman がブログでAlan Greenspanを批判している。自分がFRB議長であったときにバブルを見ようとせず何もしなかったのに、現在の米国の金融危機に対して淡々と評価をし、レッセ・フェールを再確認して文章(FTへの寄稿)を終えているGreenspanの姿勢を批判したのだが、その中でKrugmanは、ケインズの『貨幣改革論』での有名な文章:

What Keynes said:

In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

を引用している。Greenspanをケインズがここで批判的に書いているようなエコノミストであるといっているのだが、この部分の和訳を、参考までにググッてみた(英語の意味は大体分かるのだが、日本語にする時どうするかとふと思ったので)。実は、ここの部分のすべての日本語訳を載せたサイトはほとんどないことが分かったのだが、最初に、官僚ブログで有名なbewaad氏のブログのプロフィールが出てくる。bewaadというHNはまさにこのケインズの文章に由来するからだが、そこでは一つ前の文章から書き始められているが、

This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

(長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。 大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。)

という訳。bewaad氏自身の考え方まで織り込んでしまっている。さて、もう一つの検索結果もみると、

■This long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.

政府や専門家の思わせぶりな甘言にもかかわらず、長期不況からの出口は依然として見えないが、日銀を含む経済官僚や銀行家、経済学者、エコノミスト、諸々のアナリスト(w の無能さが白日のもとにさらされたことだけは良いことだったと思う。さて上の英語はケインズの有名な言葉だが、以下の訳はいかがなものか。

(1)長期では(なんとかなるさ)、って考え方では、今どうすりゃいいの、ってことはうまくいかなくなりがち。 長期では、みんなくたばっちまうんだ。大荒れの時期に、嵐がどっかに行けばまた静かな海が戻ってくるさ、ってことしか言えないなら、経済学者ってずいぶんとお気楽で、役立たずな連中なんだって自分自身を貶めちゃってるよね。
(2)・・・・長期的にみると、われわれはみな死んでしまう。 嵐の最中にあって、経済学者にいえることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である

(1)は先ほどのbewaad氏の訳。(2)は出典不明(ケインズ全集?)。いずれにしろ、「以下の訳はいかがなものか」というのは同感。たいした能力もないが、私なりに訳してみると、

「この"長期"というものは、現下の問題に対しては誤った指針になる。長期的には我々はみな死んでしまっているのだ。経済学者が、嵐の吹くような激動の時期に「嵐が遠く過ぎ去ったときには海は再び平穏になるものだ」ということしか言えないのであれば、彼らは、あまりに安易で無用な仕事を自分に課していることになる。」

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